芥川龍之介というと、すぐ暗いイメージが浮かぶ。坂口安吾は、芥川の死後、芥川の書斎を訪ねたとき、そのあまりの暗さに辟易したという。
芥川の晩年の作、「歯車」「河童」などの作品は暗さの象徴みたいなもので、読んでいてやり切れない気持になる。同じ自殺した作家太宰治と芥川は違う気がする。芥川は追いつめられ、もう逃げ場がなくなって死んでしまった感がある。太宰には追いつめられたという感じはない。 芥川の晩年を振り返ってみると、芥川の師匠夏目漱石の晩年とどこか似ているような気がしてならない。漱石晩年の作品、特に「行人」以降の作品を読むと気が滅入る。答のない問題を一生懸命解こうとして、どうどう廻りしているような漱石が浮かぶ。芥川も同じような答のないテーマに挑んで、最後は疲れ切って、こちらは自ら命を落とす。これを芸術家の宿命といったら何と芸術家とは哀れな生き物であろうか。 漱石も芥川もまぎれもなく大作家であり、私はこの2人の作家の作品は大がつくほど好きである。だが、もし2人の作家が生きていたら、一言だけ苦言を呈したい。何故、初期作品に見られるユーモア・機知に富んだ健康的な作品を書き続けなかったのかと。 私は芥川の作品の中で好きな作品を5つあげろといわれたら、「鼻」「芋粥(いもがゆ)」「蜘蛛の糸」「杜子春」そして「トロッコ」をあげる。これらの作品が何故好きかというと、やはり、ユーモアと機知に富み、倫理感も非常に健康的であるからだ。 芥川の真骨頂は、幅が広く深い知識をベースにして、人間の心理の襞(ひだ)をするどく洞察した描写にあると思っている。この意味では「鼻」は最高傑作である。そして「鼻」に劣らず傑作なのが今回とりあげる名作「蜘蛛の糸」「杜子春」「トロッコ」である。
この3つの作品は少年少女向きに書かれた年少文学といわれているものだ。ところが大人が読んでもたいへん感動させられる小説である。私は大人になってからでも、ことあるごとにこの3つの作品は読み続けた。「蜘蛛の糸」「杜子春」は人類普遍のテーマが詰まっている。そのテーマとは「愛」である。この場合の「愛」とは「自分を犠牲にして他人を思いやる」ことである。これはキリスト教の基本理念でもあり、この「愛」はあの世界の文豪トルストイ・ドストエフスキーの作品の中心テーマでもある。 ここにおもしろい話がある。「蜘蛛の糸」のストーリーは仏典にのっていると思われているが、実際には日本に伝わった仏典には「蜘蛛の糸」にある内容の話はない。芥川はアメリカで出版された『カルマ』という本の中に出てくる「蜘蛛の糸」<The Spider Web>からその材をとっているのである。その内容は芥川の「蜘蛛の糸」と同じである。 『カルマ』に注目したのは芥川ばかりではない。ロシアの文豪トルストイも注目し、「蜘蛛の糸」を翻訳し、ロシアに紹介した。ところが、意外にもロシアの民話の中に「1本の葱」といって、「蜘蛛の糸」と似たようなのがあったのである。内容は蜘蛛の糸を葱に変えたものである。この民話に目をつけたのはドストエフスキーで、彼は「白痴」「カラマーゾフの兄弟」の中でこの話を登場させている。「蜘蛛の糸」のテーマとドストエフスキーの作品のテーマと一致するのである。そのテーマとは先に述べた「他人のために自分を犠牲にできるか」である。
わかりやすい文体で、おもしろく子供たちに教え諭すような「蜘蛛の糸」が実は世界文学レベルの小説だったのである。「蜘蛛の糸」を読んで感動した人はその作品に隠された世界文学性を無意識に感じとったからではないだろうか。
「杜子春」も同じようなテーマである。「杜子春」においては杜子春の両親が「愛」を示した。彼らは息子のために自分らを犠牲にし、そして、杜子春は彼らのために、自分の願望を放棄する。この杜子春の行為を、芥川は正しい生き方として肯定するのである。健康的な芥川の顔が垣間見えてくる。
「トロッコ」も「愛」をテーマにした作品である。この場合の「愛」とは家族との絆という意味での「愛」である。
人間はどのようなとき幸福を感じるのか。それは、孤独でない状態、すなわち誰かに「見守られている」状態のときである。逆説ながら自由は誰かに見守られているときに感ずるのだ。この感覚は幼い子供の場合顕著にあらわれてくる。両親の目の届くところでは、子供は自由にのびのびと動き回る。そのとき、彼らはつねに無意識のうちに母親が自分を見ていることを感じとっているのである。しかし、遊びに夢中になると子供たちは瞬間的に母親の存在を忘れる。遊びに飽きると同時に母親の存在を意識し、母親の存在を感じないと、泣き出すのである。映画の名作「禁じられた遊び」はこの子供の心理が哀しいくらい見事に描かれている。 この子供の心理を芥川は「トロッコ」の中で、これ以上うまく描くことが出来ないというくらいうまく描いた。何故、良平は家に着いたとき、それまで我慢していた涙を流し、大泣きに泣いたのか。彼は生まれて初めて孤独を味わったからだ。 トロッコは良平にとって何物にも代えがたいおもちゃであった。そのおもちゃと遊びたくて、彼は無意識のうちに、家族の視線を感じない境界を通り越して遠いところに来てしまった。このことを自覚してから良平は不安になる。その不安はどんどん増幅して不安が極大点に達したとき、やっと彼は家にたどり着く。と同時に泣き出すのである。
芥川は「トロッコ」において、人間と人間のつながりの尊さを謳いあげているのである。
(芥川龍之介は、東京両国で生まれた。写真は両国国技館で行われている大相撲です。) |