芥川龍之介という作家は余程懐疑的な人であったのであろう。文学者の宿命であるといってしまえばそれまでだが、芥川の懐疑性は異常ともいえる。「藪の中」はその懐疑性を表現した1つの作品である。 「藪の中」は推理小説仕立の短編小説であるが、単なる犯人探しの小説ではない。実際には「藪の中」の真犯人はわからない。非常に意味深長な作品である。芥川はこの作品で、ある事件が起こってもそれに対する解釈はいろいろあることをいいたかったのであろうか。と同時に、真実とは人にとっていろいろ違ったふうに解釈されることを示したかったのかもしれない。<これが真実だ。>といわれても、実際には本当に真実かどうかはわからない。真実かどうかの判断には客観性でなく主観性のほうがはるかに重きをなすことを私たちは経験的に知っている。芥川はこの真実における原理を小説化したかったのかもしれない。 「藪の中」は懐疑的ではあるが、厭世的ではない。芥川は人生の不思議さ、そしてその機微を芸術的な観点から書いたと見るべきだ。 「藪の中」は今昔物語を原典としている。原典では殺人は起こらない。丹波から京へ向かう旅人の夫婦が、旅の途中ある男に出会う。男は夫婦をうまく騙し、藪に連れ込み夫を縛り上げ、妻を手込めにしたというのがその話の内容である。「藪の中」は芥川の他の王朝物といわれている作品と同様素材は古典からとっているが、内容のほとんどは芥川の創作である。
1人の男が藪の中で殺された。男は妻と一緒に丹波から京へと行くところであった。状態から見て、物取りに殺されたようである。 検非違使(けびいし)が多襄丸という名うての好色な盗人を捕まえた。多襄丸は自分が男を殺したと白状した。その言い分によると、多襄丸は昨日街道で夫婦に会い、男を殺し、女を奪おうとした。多襄丸はまんまと夫婦を騙し、藪の中に連れ込み、男を縛りあげそして女を手込めにした。手込めにされた女は人が変わったように多襄丸に縋り付き、夫を殺すか自分を殺すかしてと迫った。2人一緒にこれから生きていけないといったのだ。多襄丸は男の縄をほどき、男に太刀を持たせ、太刀打ちをした。多襄丸の太刀は男の胸を貫いた。その間に女は逃げて行った。 妻は清水寺で懺悔した。妻は自分が夫を殺したことを白状した。盗人は自分を手込めにすると、縛られた夫を眺めながら嘲(あざける)ように笑った。そして盗人はどこかへ行ってしまった。取り残された妻は、夫の自分を見る冷たい目に気付いた。妻はあまりの悲しさに夫を殺し、自分も死のうと決意する。そして、小刀でもって夫の胸を刺し通した。女はこのとき、気を失ってしまい、気が付いたときは夫は死に絶えていた。妻は死ぬこともできずに、その場をあとにした。 死んだ男は霊になって自分で自分を殺したことを告白する。男は杉の根に縛られて、妻が盗人に手込めにされるのを見ていた。盗人は手込めにしたあと、妻を慰めだした。男は妻に、盗人の言うことを真に受けるなと目配せした。しかし、妻はそれを無視するように盗人のいっていることに聞き入っていた。盗人は妻に自分の妻になるよう説得した。そして、妻は盗人に「あの人(夫)を殺してください」と頼んだ。盗人は男に「あの女を殺すか、それとも助けてやるか」ときいた。 妻は叫び声を上げて、その場を逃げた。盗人も一箇所だけ男を縛っている縄を切ると藪の外へ姿を消した。男は妻の残した小刀を見つけた。そして、男はその小刀を手に取ると、一突きに自分の胸を刺した。
盗人・妻は自分が殺したといい、殺された男は自殺したといっている。はたして誰の話が本当なのであろうか。 3人の話は食い違っているが、共通しているところもある。それは夫婦である男と女は、女が盗人に手込めにされたあと、完全に心が離れていったのである。「藪の中」は妻が夫の目の前で他の男に犯されるという衝撃的な内容の小説なのである。 芥川の「藪の中」を書いた本当の意図は何だったのか。それも藪の中なのかもしれない。 |