1904年、日露戦争がおこなわれているとき、ロシアの文豪トルストイはロンドン・タイムズ紙上で、「汝、悔い改めよ」と日露両国の首脳に訴えた。その記事を見て感心した人の1人が、当時アメリカに留学していた有島武郎である。 有島の学問の経歴はおもしろい。彼は札幌農学校に入学したとき、担当の教師から「君の好きな学問は何か」と問われ、「文学・歴史」と答えたという。有島の卒業論文は「鎌倉幕府初代の農政」で、彼はこの論文で農学士となった。 有島の前半生は学問・研究にあけくれたといってよい。文学・歴史だけでなく、彼の学問の領域は政治学・経済学・社会学・神学などはば広い。 有島は帰朝後、東北帝国大学農科大学校(札幌農学校が改称)予科講師になるが、大正5年、結核の妻の養生のため、学校をやめた。妻の死後、有島は本格的に作家活動を始める。彼は短期間に夥しい作品を書いた。
私と有島の出会いは「生れ出づる悩み」である。この作品は中学の教科書にのっていた。確か作品の最初の部分だけであったが、その内容はその後ずっと私の脳裏に残った。高校生になって、「生れ出づる悩み」を全部読み、そして、現在まで事あるごとに私はこの作品を読み続けている。
「生れ出づる悩み」は有島の体験をもとに書かれたものである。この作品は「生きることとは何か」を真剣に問うたものである。 札幌にいる文学者の「私」のもとに、東京の中学を退学した10代半ばの青年が訪ねてくる。彼は自分の描いた絵を「私」に見せた。「私」はその絵をみて、いささか幼稚ではあるが、驚かずにはいられなかった。その絵には不思議な力がこもっていた。「私」はその絵をほめた。青年は愛想のない人で、ほめられてもうれしそうにしなかった。逆に、この絵はどこがよくないかきいてきた。「私」は思ったことを正直に答えた。青年は帰っていった。 それから10年、「私」はその青年とは会わなかった。数回手紙はきたが、会うことはなかった。だが、「私」は心の中でつねに彼のことを気にしていた。彼の名は木本といった。突然、彼から会いたいという手紙がきた。10年振りに再会した木本は10年前とは似ても似つかない人であった。結婚もしていた。腺病質な芸術家タイプの人間だった彼の風貌は大きく変わり、筋骨たくましい大男になっていた。 「私」と木本が再会したのは、冬のある日の札幌であった。「私」と彼は夜を徹して語りあった。そして、翌朝早く、木本は大雪の中を岩内へと帰った行った。 「私」は木本の「私」と出会ってからの10年と、現在の彼の生活について想像をめぐらす。 木本の生活は苛酷な北の海に生きる猟師の生活である。パンのため、彼は吹雪の中を漁にでる。それこそ、板子1枚下は地獄の世界である。極寒の冬の海で、船が沈没して九死に一生を得たこともある。 苛酷な労働に従事しても生活は一向によくはならない。ますます苦しくなるばかりである。逆に、資本家といわれる人たちはますます豊かになっていく。 苦しい生活の中で唯一絵を描くことが彼の救いであった。彼は休むべき貴重な時間を割いて絵を描く。人は彼が絵を描くのを見て馬鹿にする。友人1人と妹だけが彼の理解者である。 彼はいつも自殺の誘惑に駆られる。自殺を考えるたびに思いとどまった。
この作品には「パンのために」という言葉が何回か出てくる。「パンのために」とは「生活のために」ということである。はたして、人はパンのために生きるのであろうか。その問いかけが「生れ出づる悩み」のモチーフでもある。「生まれ出づる悩み」は資本家と労働者という構図は描いているが、やはり、この作品が追求しているのは人間とは何か、生きるとは何かということである。 主人公木本は孤独と絶望の中で生きている。それは「生きる」ということの意味をつかみ得ないからかもしれない。それは作者有島も同じであった。 有島の自殺は「人はなぜ生きるのか」「人はなぜ生きなければならないのか」と懊悩(おうのう)した結果だったのか。 「生まれ出づる悩み」が名作であればこそ、私は有島の悩みの深さを思わずにはいられない。 |