| 平安の人たちにとって、いや古代の人たちにとっても月は神秘的なものであり見飽きないものでありました。美しいかぐや姫は地球の男たちを翻弄し、そして月に帰っていきました。そして月はうさぎがいると長らく信じられてきました。実際の月にはうさぎどころか、空気も水もなくあるのは砂と岩石ばかり、夢もロマンもありません。でも、日本人にとって月はかけがえのないものなのです。新月、下弦の月、望月(十五夜・満月)、十六夜の月、上弦の月、月はいろいろな表現をもっていますし、また、いろいろな意味をもっています。 |
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることの なしと思へば |
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喜んでは月を見、悲しんでは月を見ました。その都度、人はしみじみとした思いにかられるのでした。
あなたは月をじっくりと見たことがありますか、一度じっくりと見てごらんなさい。きっとしみじみとした気持ちになります。
大学の教養科目を減らせという声が喧しくなって久しくなります。逆に大学は世の中に出て役に立つことを勉強すべきで、もっと実務的な科目を増やせという声が大きくなってきています。何も大学だけの問題ではなく、高校の教科書からは漱石・鴎外の文章が消え、漢文までなくせという輩までいます。
はたして、漱石・鴎外は必要ないのでしょうか。漢文は習わなくてよいのでしょうか、昔、漱石研究の第一人者である文芸評論家の江藤淳は高校生に向かって「漱石の『こころ』を読みなさい。漢文の勉強をしなさい。」と教え諭しました。
つい最近、国立大学の医学部での筆記試験合格者に対して、学長が1人ひとり最終面接をしました。学長はすべての面接する受験生に対して漱石・鴎外は読んだことがありますかと質問しました。驚くなかれ、誰1人として漱石・鴎外の作品一作たりとも読んでいなかったのです。学長は医者である鴎外の「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」はまだしも、「高瀬舟」ぐらいは読んでいるはずだと思ったのでしょうか。
漱石・鴎外は医者になるのに必要かといわれれば、それは必要ないでしょう。でも医者ならば、鴎外の「高瀬舟」、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」、山本周五郎の「赤ひげ診療譚」、有吉佐和子「華岡青洲の妻」ぐらいは読んでいてほしいものです。
文学が必要か必要でないか、または役にたつか役にたたないかの議論ほど意味のないものはありません。それは月をじっくり見るのは必要かどうかといっているのと同じレベルの議論なのです。
ただ、月をじっくりと観照する人は心が豊かな人に違いありません。そして、漱石・鴎外などの作品や、その他の古典といわれる作品をたくさん読んでいる人も心が豊かに違いありません。
苦しいとき、辛いとき、わびしいとき、お金が無くてどうしようもないとき、人寂しくなったとき、そんなとき、林芙美子の小説や、ロマン・ロランの「ベートーベンの生涯」を読むと一抹の涼風が心の中をよぎるのが感じられます。
文芸評論家の江藤淳が高校生に向かって、将来役にたつから『こころ』を読みなさい。漢文を読みなさいと言ったのではないことは確かです。
こんどじっくり月を見ることをおすすめします。 |