鮮明に覚えている子供時代の出来事というものを誰でもがもっているのではなかろうか。不思議なもので年齢を重ねれば重ねるほどその記憶はより鮮明になってくる。 暑い夏の日、自宅の近くの工場の裏庭に忍び込んで、そこにある木に生息しているカブトムシをとっていると工場の人に見つかって大慌てで逃げた。私はこのことを昨日のことのように覚えている。なんでもないことなのだが、この記憶がたびたび蘇ってくる。 子供時代の記憶というのは特別なのだろうか。やはり子供時代はなつかしい母親と直結するからだろうか。 「ノンちゃん雲に乗る」を読んで私の脳裏には子供時代のことがいろいろと浮かんだ。「ノンちゃん雲に乗る」はある春の日に起こったことが書かれているのだが、私を子供時代へと導いてくれたのである。私はなつかしさで胸が一杯になった。
「ノンちゃん雲に乗る」はノンちゃんと呼ばれている田代ノブ子という小学校2年生の女の子がひょんなことから雲に乗ってそこにいる仙人みたいなおじいさんと話をするという物語である。 ひょんなことから雲に乗るといっても実際に雲に乗ったわけではない。ノンちゃんは東京のはずれに住んでいた。今では東京のはずれでも都会であるが、ノンちゃんが小学生であった昭和の初めは全くの田舎であった。ノンちゃんの家族は両親とおにいちゃんとノンちゃんの4人家族である。 ノンちゃんはお母さんがたいへん好きであった。いつもお母さんのそばにいたがった。ある春の日の朝、目を覚ましたノンちゃんは台所でお母さんが大根を切っている音を聞いた。今日はダイコンのおみおつけだとノンちゃんは胸をワクワクさせた。ところがダイコンを切っていたのはお母さんでなくおばさんであった。ノンちゃんはお母さんがいないのに気付いた。お母さんがノンちゃんに内緒でおにいちゃんと四谷のおじいちゃんの家に行ったことを知らされた。ノンちゃんは泣き叫び、外に出た。 いつしか畑の真ん中にある氷川様の境内にノンちゃんは足を踏み入れていた。その境内には池があり、その近くにはモミジの木があった。空は青く晴れて池には真っ白な雲が浮かんでいた。ノンちゃんはモミジの木に登り、池に写った白い雲を見ようとしたところ枝が折れて、ノンちゃんは池に写る雲に吸い込まれてしまった。 雲には仙人みたいなおじいさんがいた。おじいさん以外にも同級生の長吉がいた。おじいさんとノンちゃんはいろいろな話をした。その話の中心はノンちゃんの家族についてであった。 ノンちゃんはお母さん・お父さん・おにいちゃんの話をした。特におにいちゃんの話を長くした。ノンちゃんのおにいちゃんは田代タケシといい、ノンちゃんの2歳年上である。おにいちゃんはことあるごとにノンちゃんのことをいじめた。ノンちゃんはそのことをおじいさんに打ち明けた。はっきりいってノンちゃんはおにいちゃんが好きではなかった。ところがおじいさんはおにいちゃんはいいおにいちゃんだと褒めた。おにいちゃんはノンちゃんより成績も悪く、いたずらもよくした。ノンちゃんのことをいじめているようでもその実、おにいちゃんはノンちゃんのことを大事に思っているのだとおじいさんはいった。おじいさんの話をきいていくうちにノンちゃんはおにいちゃんのことが理解できるようになった。ノンちゃんはお母さんとお父さんのことについても話をした。 おじいさんは話がすむとノンちゃんをお母さんのもとへと送ってくれた。 ノンちゃんは目をさました。ノンちゃんは自分の家の蒲団に寝ていた。そばでお母さんが泣いていた。ノンちゃんは池に落ちたのである。池が浅かったので大事には到らなかった。お母さんはノンちゃんをおいて四谷にいったことを後悔していた。お母さんはノンちゃんの看病をした。そしてノンちゃんは元気になった。
「ノンちゃん雲に乗る」には特別なことが書いているわけではない。どこにでもあるような一家の話である。ところがこの作品にはとても大切なことが詰まっている。それは家族の絆である。特に子供にとって母親がどんなに大切な存在であるかが描かれている。 「ノンちゃん雲に乗る」を読んで私は心が洗われる気持になった。もしかしたら児童文学とは大人のためにあるのではないかとさえ思った。 |