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読書感想文
 
泉鏡花「高野聖(こうやひじり)」を読む

 名作といわれているものは、それぞれが個性豊かな読みごたえのあるものだが、中にはこれぞまさしく天才の作品だというものがある。さしずめ泉鏡花の「高野聖」はその類の作品の筆頭であろう。
 大学生の頃、「高野聖」を初めて読んだときはあまり感動しなかった。怪談めいた怪異譚ぐらいにしか思わなかった。まだ、「高野聖」の文体を熟読玩味する力がなかったのかもしれない。まだまだあのリズミカルな語りの文体についていけなかったのだ。それから、十年おきぐらいに読み直した。十年もたつとこちらもだいぶ読解力がついたのか、「高野聖」がだんだん味わい深いものになっていった。

 今回、「高野聖」を再読して、私は思わず唸ってしまった。この作品こそ鏡花によって彫琢されてできあがった最高の芸術作品であるという感を強くした。
 何が見事といって、まず、物語を語る高野の旅僧の語り口で、僧の息遣いまでこちらに聞こえてくる。思わず、読者である私も聞き入ってしまい、実際にはありえない異境の世界へすっと入り込んでしまう。
 このすっと異境の世界に入り込んでしまう感覚をどこかで味わった記憶が蘇った。どこであったか。そうだ、「今昔物語」であった。ある山里の洞穴にはいるとそこは桃源郷であった。私は何の抵抗もなく、桃源郷に足を踏み入れたのである。「今昔物語」も見事な語りである。「高野聖」の語りと、「今昔物語」の語りとどこか通ずるものがあるのか。 「高野聖」はある高野の僧が飛騨の山越えをしたときの不思議な体験を、寝物語に語ったものである。のちに、この高野の僧は宗門名誉の説教師で、六明寺の宗朝という大和尚であったことがわかるが。
 僧は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが住んでいそうな昼なお薄暗い鬱蒼とした森の中をすすむうちに一軒の山家(やまが)の前に来た。そこに着くまでには僧は不気味な生き物に悩ませられる。蛇、毛虫、蛭(ひる)などに襲われた。人が訪れる気配のない森の中の一軒家。そこには不思議な夫婦が住んでいる。亭主は少年らしいが、白痴で、その風貌は化け物じみている。
 <足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾(のれん)を立てたように畳まれそうな、年紀がそれでいて二十二、三、口をあんぐりやった上唇で巻込めよう、鼻の低さ、出額(でびたい)。五分刈りの伸びたのが前は鶏冠(とさか)の如くになって、頸脚(えりあし)は撥(は)ねて耳に被った、唖(おし)か、白痴(ばか)か、これから蛙になろうとするような少年。>
 逆に妻はびっくりするぐらいに色香ただよう美人。本人はもうおばさんですよというが、娘のように見える。その美人が僧を風呂代わりに川へ連れていく。そこで、女は米をとぐのだが、それが終わると、僧の体を水で流してやり、そして自らも裸となって水浴びをする。
 さすがの僧も煩悩の世界に迷い込みそうになる。女にはいろいろな動物たちが近寄ってきた。大蝙蝠(こうもり)、猿、蟇(ひき)などである。実は、それらはもとは人間で、女の魔力によって、そのような姿にされたのであった。女は人間を他の動物へと変身さしてしまう魔力をもっていたのだ。
 信州へと飛騨越えをするとき、僧は一人の旅商人と出会う。その商人は富山の薬売りである。薬売りは僧より一足先に森の中に入り、女の住む山家に来た。僧が女の家に来たときには、薬売りは馬になっていた。その馬は、市場へ連れて行かれて売られた。
 僧も薬売りと同じように牛か馬か猿か蟇か蝙蝠に変えられるところだった。なぜ変えられなかったのか。僧には煩悩がなかったからである。薬売りは煩悩の塊であった。
 絶世の美女と片輪の白痴と俗を超えた高野の僧の摩訶不思議な物語である。白痴はうまく話はできないが、歌は大変うまい。
 <木曾の御嶽山(おんたけさん)は夏でも寒い、袷遣(あわせや)りたや足袋(たび)添えて。>
 この清らかな涼しい声は一体どこからくるのだろうか。

 はたして、この「高野聖」の主題は何なのだろう。鏡花はこの作品で何をいいたかったのか。この問いが馬鹿げてきこえるほど、この作品は妖艶な世界を描いている芸術作品なのである。
 この作品は傍(はた)からとやかく論ずべきものではない。とにかく読んでじっくり味わうものである。
 私もこれからあと何回も何回もこの作品を読み続けるであろう。

 
作文道場泉 鏡花(いずみ きょうか)
1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)。
小説家、戯曲・俳句も手がけた。本名、鏡太郎。金沢市下新町生れ。
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