<国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。>
というあまりにも有名な出だしで始まる「雪国」を読んだ。鮮やかな書きだしである。思わず目の前に雪野原の風景が広がる。別天地に来たようだ。私もある冬、清水トンネルを越えたとき実感した。まさにノーベル賞作家の文である。
「雪国」を最初に読んだのは大学生のときであったが、そのときは主題も物語性もないあいまいな小説だという印象をうけた。詩といっていいのかもしれない。雪国という場所自体がはるか遠い、異次元の世界のことのように思えた。
最初に読んでから30年近くたって、再び読んでみると、やはりあいまいなものを感じた。だが今回は読んだ後、なぜか郷愁に似たなつかしさを感じた。
はたして、川端康成はこの作品を通して何を言いたかったのか、もしかしたら、そのような問いが無意味な小説なのかもしれない。やはり詩なのか。
何よりもこの小説をあいまいなものにしているのは、島村であり、そして葉子である。島村はこれといった生業についておらず、舞踊についての翻訳をしてそれを自費出版するような人間である。親から受け継いだ資産があるから生活の心配はいらない。妻子はあるらしい。東京のどこに住んでいるかはわからない。夏目漱石のいう高等遊民みたいな生活を送っている。いろいろなところを旅行して、そして、雪国でたまたま出会った駒子といい仲になって、それから雪国に通うようになる。1年に1回、七夕の日に出会う牽牛星と織女星のようなものだ。
「雪国」は葉子で始まり葉子で終わっているといってもよい。その葉子とは何ものであるのか。最後まで読んでも、駒子と葉子の関係はあきらかにされていない。葉子と駒子と駒子の師匠の息子と三角関係にあったようでもあるし、そうでもないらしい。不思議である。葉子は実体がないのに、その存在感は圧倒的である。葉子がこの「雪国」の主人公といっていいくらいだ。事実、島村も葉子に惹かれていく。島村と葉子は関係をもったのか、その描写はないがあってもおかしくはない。駒子は現実的な女として描かれている。駒子には生活の臭いがし、そして体を張ってお金を稼いでいる。酒の臭いがぷんぷんと漂ってくる。ところが葉子には駒子が放つような臭いがない。葉子の全存在はその声にあるといってもよい。小説の冒頭、島村の乗った汽車が信号所にとまったとき、島村の前のガラス窓を落とし、「駅長さあん、駅長さあん。」と遠くへ叫ぶ娘がいる。その娘が葉子なのである。島村にはその声はとてつもなく美しいものとしてかれの脳裏に残る。
葉子の声が作品の中で何回となく湧き上がってくる。葉子は悲しいほど澄み通って木魂(こだま)しそうな声で歌う。
蝶々(ちょうちょう)とんぼやきりぎりす
お山でさえずる
松虫鈴虫くつわ虫
そして、葉子は手鞠歌も歌う。
・・・・
・・・・
裏へ出て見たれば
梨(なし)の樹(き)が三本
杉(すぎ)の樹が三本
みんなで六本
下から烏(からす)が
巣をかける
上から雀(すずめ)が
巣をかける
森の中の螽★(★は虫に斯)(きりぎりす)
どういうて囀(さえず)るや
お杉友達墓参り
墓参り一丁一丁一丁や
葉子は何かの象徴なのだろうか。その声といい、そしてその死といい人間離れしたものを感ずる。
葉子の象徴性を考えているとき、大学時代にきいた文芸評論家の奥野健男の講演を思い出した。講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。
「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。
とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。
駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。
日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。 |