香川県高松市の市街の中心にある中央公園の入口には大小2つの銅像がたっている。小さい銅像が菊池寛である。中央公園に面した1つの通りは菊池寛通りといい、その通りには『父帰る』の親子の修羅場を模した銅像もある。 菊池寛は高松出身で、地元の高松中学(今の高松高校)から第一高等学校、京都帝国大学へと進む。第一高等学校時代、芥川龍之介らと知り合う。 現在ではなくなったが、少し前までは屋島にはケーブルカーが敷設されていた。私はよくそのケーブルカーに乗って、屋島の山頂へと赴き、そこでしばしの時を過ごした。屋島の麓(ふもと)のケーブルカーの駅舎には吉川栄治の色紙が飾られていた。吉川栄治が『新平家物語』を執筆するため取材に訪れたときに書かれたものである。そしてもう1つ菊池寛の詩も飾られていた。菊池がまだ高松中学の生徒であった14歳の時に書かれたものであった。 私はその詩を読んでいささか驚いた。これが本当に14歳の少年が書いたのかと疑わせるほど見事な詩だったからである。高松の自然を愛(め)で、そして青雲の志を書いた詩であったと思うが、文章は力強くなおかつリズミカルであった。私は菊池寛という人が早くから文学的才能を持ち合わせていたことに気付いた思いであった。
菊池寛といえば作家というよりも「文藝春秋」の創立者というイメージが強い。芥川賞・直木賞は菊池の発案で創設された。菊池は文学・ジャーナリズムを中心として「本」ビジネスを確立した人であった。不安定な作家の生活基盤を整備したり、本を一般に広めるための流通の構築にも尽力した。菊池は「本」の歴史について語るときに、なくてはならない人である。 菊池寛に対してこのようなイメージをもっていたから彼の代表的な短編を読んだときは意外な感じがした。それらの短編は芥川の短編と同じく、深く味わい深いものであった。私は菊池寛という人を見直した。この人はまぎれもなく一流の文学者であると。 私が一番感銘した短編は「藤十郎の恋」であった。
京都の都では2人の役者が人気を二分していた。1人は都万太夫座(みやこまんだゆうざ)の坂田藤十郎であり、もう1人は山下半左衛門座の中村七三郎である。2人は鎬を削った。坂田は傾城(けいせい)買の上手として、やつし(歌舞伎で若殿や若旦那などが勘当を受けたり、義理や恋のために、卑しい姿に身を落としているような役柄)の名人としては天下無敵の名をほしいままにしていた。 対する中村七三郎は東からきた江戸歌舞伎の統領として、藤十郎と同じくやつしの名人であった。二人の競い合いははからずも東と西の戦いになった。 顔見世狂言では中村七三郎は不評であったが、初春の狂言では京の人たちを虜(とりこ)にしてしまった。坂田も対抗して得意の夕霧伊左衛門を出した。だが口さがない京童(きょうわらわ)は藤十郎の芸には新味に欠けると責めた。中村と藤十郎の人気の差は広がる一方であった。 藤十郎が失地回復のために打った手は近松門左衛門に相談することであった。藤十郎は近松から新しい役を与えられた。それは人妻と不義をする役であった。当時、不義密通は打ち首であった。この役はどれだけ真に迫るかでその出来が決まった。藤十郎は悩んだ。彼は女と惚れあったことはあったが、不義をした経験はなかった。迫真の演技をしなければお客は逃げてしまう。 そんなとき、藤十郎が行きつけの茶屋の一室で休んでいたところ、そこへ茶屋の主人の妻であるお梶が藤十郎が横になっているのを気遣ってやってくる。藤十郎はこのときばかりと、一世一代の演技をする。お梶は40歳を超えてはいるが、若い頃から歌妓(うたいめ)として嬌名(きょうめい)をうたわれただけあって、美人であった。藤十郎はお梶に昔からの思いを打ち明けた。お梶の驚きはいかばかりであったろう。お梶は部屋の灯を消して藤十郎を受け入れる姿勢を示した。藤十郎は何もせずにその部屋をあとにした。
藤十郎が演ずる不義をテーマにした『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』は大当たりであった。藤十郎は面目を一新し、都の花形役者に返り咲いた。おおぜいの見物人が万太夫座に押しかけた。 『大経師昔暦』が大盛況のある日の朝、楽屋の片隅の梁で中年の女が首をくくって死んでいるのが見付かった。その女はお梶であった。
芸に生きる男の不条理を格調高い文体で「藤十郎の恋」は描いている。 |