ある夜、一人の商人が江戸の紀ノ国坂を歩いていると、濠(ほり)ばたに女が一人うずくまっていた。商人は事情をきこうと思い、女に声をかける。だが女は商人の声には耳をかさず、ただ顔を隠して泣き続ける。商人はなおも執拗に声をかける。女はやおら顔をあげ、たもとをおろして顔をつるりとなでた。見ると、顔には目も鼻も口もなかった。商人は悲鳴をあげて逃げ出した。 この話は小泉八雲によって書かれた「むじな」である。
小泉八雲というのは日本名で、西洋名はラフカディオ・ハーンという。ハーンの父はアイルランド人で母はギリシャ人であった。ハーンは敬虔なるカトリック教徒で、若い頃から世界を転々とする。明治23(1890)年、雑誌の特派員として日本を訪れる。しかし、特派員をすぐにやめ、松江中学の英語の教師となる。松江という土地にハーンは深く親しみ、この地で旧士族の小泉節子と結婚する。その後、ハーンは日本に帰化し、小泉八雲と名を改めるのである。 小泉八雲ほど日本そして日本人の美しさを愛した西洋人を私は知らない。八雲は日本の古典を読み漁り、昔話・民話などの伝承文学を徹底的に研究した。私たちは八雲の著作によって上にあげた「むじな」そして「耳なし芳一のはなし」「ろくろ首」「雪おんな」などの昔話・怪談を知ることになる。 「小泉八雲集」には日本の昔話・怪談の話のほかに、日本について書かれた随筆も載っている。私は学生の頃、八雲の著作を読んで深く感動し、そして日本人の気質について真剣に考えるようになった。 私はハーンの昔話・怪談をおもしろく読んだが、それ以上に日本について書かれたものに興味をもったのである。その代表的なものが「日本人の微笑」である。
日本人は失敗を犯したとき、最愛のものを失ったときでも微笑する。そして死ぬ間際でも微笑する。これらの微笑が西洋人には摩訶不思議なものであり、日本人とはおかしな人種であると西洋人は否定的に捉えた。ハーンはこの日本人の微笑に深い考察をほどこし、この微笑は日本人が長い間に身に付けた洗練された1つの作法だと結論付けた。 ある西洋人の家に雇われた女中の亭主が死んだ。女中は亭主が亡くなったことを西洋人の主人ににこにこと笑いながら報告し、そして葬式に行かせてほしいと頼んだ。その西洋人はその笑いがどうしても理解できなかった。ハーンによると、この笑いは性格の弱さからくるものでなく、「あなたは、これを不幸な出来事のようにお考えになるかもしれません。どうか、こんなつまらぬことで、ご心配なさらないようお願いします。失礼を顧みず、ついこんなことをお耳に入れて、申し訳ございません」という礼節からくるものであるというのだ。 日本人はつねに相手を持ち上げる謙遜の心をもっているため、自らを一段も二段も下におく。それが微笑という形で表れるとハーンは喝破する。それが日本人の徳であり、そしてハーンはこの日本人の徳を尊いものとして評価するのである。
もう1つ私の心の中に残った随筆は「門付け」である。門付けとは人の家の前で芸を行い、お金や食べ物をもらう芸人のことである。 ハーンは盲目の女の門付けの歌をきいて深く感動する。ハーンは盲目の下層の女の歌う歌の中に、民俗を超えた、人類の生命に訴える力を感じたのである。
小泉八雲は日本人以上に日本および日本人の美質を追求した。私は八雲の書いたものを読み何度もはっとさせられた。 ハーンが日本にきたときは時あたかも文明開化の真っ最中で、国はこぞって西洋文明に目をむけていたときである。西洋文明を教えるお雇い外国人のハーンは逆に日本の文化に魅せられたのである。 ハーンは東京帝国大学で英文学を教えた。ハーンがその職を辞めたあと彼の授業を受け継いだのは洋行帰りの夏目漱石と上田敏であった。 |