国木田独歩は詩人的生き方をしたが、独歩の才能は短編小説において遺憾なく発揮された。独歩は芥川龍之介と並び称される短編の名手である。独歩の短編は哲学的な面もあるが、人生そのものが凝縮されている。独歩の人間を見る目はするどい。人間だけではない、自然に対しても敏感に反応する。 敏感で繊細な神経をもつ大胆な人であると、私は独歩に対して思っている。そういう意味では独歩はまさしく詩人である。 「武蔵野」は見事な短編だ。この作品の中では武蔵野の林も木も生き生きしており、それらのささやきが聞こえてくるようだ。ツルゲーネフの「あひびき」の二葉亭四迷訳を引用しながら武蔵野の風景を描写していく。ロシアの野とは違い、武蔵野の風景はなごやかでやさしい。楢やぶなの木が生え、その葉が紅葉しそして落葉していく。武蔵野の四季の変化を詩人の研ぎ澄まされた感覚でとらえていく。 私はこの「武蔵野」を読んで、不思議な思いをした。この「武蔵野」の舞台となっている場所はまぎれもなく、現在の東京並びにその周辺である。鳥の囀る声、虫の音、そして林がささやく声を聞くのが今の渋谷である。今の渋谷からは想像もつかない。独歩は当時の渋谷村に住んで変わりゆく自然を愛でていたのだ。 独歩は武蔵野とはどのような範囲をさすかを示している。 <そこで僕は武蔵野は先ず雑司谷から起つて線を引いて見ると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んだ円(まる)く甲武線の立川駅に来る。此(この)範囲の間に所沢、田無などいふ駅がどんなに趣味が多いか……殊(こと)に夏の緑の深い頃は。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子は決して武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。此(この)範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。……> 二子とは、現在の多摩川をはさんで東京側の二子玉川、川崎側の二子新地をさしている。昔はここに多摩川の渡し場があり、大山街道をつないでいたのである。二子新地から大山街道を西へ少しいくと溝の口にでる。溝の口は「忘れえぬ人々」の舞台で、ここで文学者の大津と画家の秋山が出会う。 「忘れえぬ人々」は次のような出だしである。 <多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口といふ宿場がある。其(その)中程に亀屋といふ旅人宿(はたごや)がある。恰度(ちょうど)三月の初めの頃であった、此(この)日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しい此町が一段と物淋しい陰鬱な寒(さ)むさうな光景を呈して居た。昨日降つた雪が未だ残って居て高低定らぬ茅(わら)屋根の南の軒先からは雨滴(あまだれ)が風に吹かれて舞うて落ちて居る。草鞋(わらじ)の足痕(あしあと)に溜つた泥水にすら寒むさうな漣(さざなみ)が立って居る。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉めて了(しま)つた。闇(くら)い一筋町が寂然(ひっそり)として了つた。……> 私にはこの文章がえもいわれぬなつかしさをともなってくる。溝の口は私の生地なのだ。私は溝口で生まれ7歳までいた。亀屋もなつかしい。亀屋は今はもうないが、私が子供の頃は旅館ではなく高級和菓子屋であった。溝の口は今ではビルだらけの街になってしまったが、亀屋があったあたりは昔の宿場町の風情を残している。溝の口は私には忘れえぬ土地である。 さて、「忘れえぬ人々」とは、文学者大津にとって忘れえぬ人々について書かれたものである。大津はその人たちとは口をきいたこともない。それらの人は通りすがりに出会った人たちだといえる。瀬戸内海を渡る船の中から見た小島の人間、阿蘇山でみた若者、松山で見た琵琶僧などである。忘れえぬ人々とは、人生の中で瞬間的に出会い、二度と会えない人たちなのである。なぜこれらの人たちが忘れえぬ人たちなのか、なにやら運命論めいているが、放浪する詩人独歩ならではの感覚なのだろうか。だが、切れのよい包丁ですぱっと人生を切ったその断面を見せつけられた思いがする。 数年後、大津は「忘れえぬ人々」を脱稿する。その中には画家の秋山ははいっていなかったが、亀屋の主人がはいっていた。 私には亀屋は忘れえぬ和菓子屋である。
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