お茶の水駅からすぐの駿河台にはいろいろな学校がある。明治大学・駿台予備校・アテネフランスなどに混じって、2階建ての古めかしい門をもつ文化学院がある。門を通り抜けると高いビルに出る。そのビルに文化学院の高校・専門学校が入っている。 ビルに入ると、目の前にヨーロッパの寺院を髣髴(ほうふつ)させる階段が広がる。文化の香り漂うビルである。 文化学院は専門学校ではあるけれども、芸術とりわけ文学に関心のある人にとっては知る人ぞ知る名門の学校である。与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめとして佐藤春夫・菊池寛などの大文学者が学校の運営に携わってきた。戦後、遠藤周作もこの学校でフランス語を教えている。 文化学院は1921(大正10)年に創立された。創立者は西村伊作である。西村伊作は福沢諭吉・新島襄ほど有名な教育者ではないが、ユニークな人生を送った文化人としては歴史に堂々と名を残す人である。
黒川創の「きれいな風貌 西村伊作伝」は生身の西村伊作を描き出した評伝である。名著である。私はこの本を読んで、西村伊作という人間にたいへん興味をもった。西村伊作が作家である黒川に評伝を書かせたほどの男であることを納得した。本来創作家である作家がここまで資料を調べ上げ、事実に忠実に1人の人間の生きた軌跡を書くのはめずらしい。それほど、西村伊作は黒川にとっては魅力的だったのだろう。よく調べたものだと私は感心した。 伊作は飛び抜けて個性的な男であった。別ないい方をすると、自由奔放に、己の利益となるためにはどんな抵抗があってもやろうとした男であった。ただ、その利益は普通の人が思っている利益とは違う。 伊作は和歌山県新宮で1884(明治17)年に生まれた。新宮といえば、すぐ思い出すのが佐藤春夫である。佐藤は西村より8歳年下で、終生、伊作のことを慕った。佐藤に「愚者の死」という詩がある。この詩は大逆事件(1911年)で処刑された新宮の医師大石誠之助を悼んだものである。大石誠之助は伊作の実の叔父である。 伊作は幼いとき、濃尾地震で両親を失った。そのため、伊作は祖母の養子となり、西村家の財産を継ぐことになった。西村家は広大な山林を持つ資産家であった。伊作は金持ちのぼんぼんとして生きたのである。伊作は好きなことには惜しげもなく金を投じた。 伊作は世界一周旅行をしているし、自分の住むモダンな家も設計している。伊作は建築家になった。伊作は建築を文化としてとらえ、建築以外の文化にもいろいろと関心を示した。 伊作は駿河台に500坪の土地を買い、その土地に学校を作った。自分の娘に自由な雰囲気の中で教育を受けさせたくて、自ら学校を作ったのである。この学校が文化学院である。文化学院には補助金が出なかった。伊作は自由に学校を運営したかったので、はなから補助金をもらうつもりはなかった。文化学院は中等教育では日本で始めての男女共学の学校であった。 伊作と文化学院は戦前・戦中・戦後を通じて数奇な運命をたどっていく。戦争中、伊作は不敬罪で刑務所に入れられたし、文化学院は閉鎖された。 戦後になっても、伊作は変わらなかった。<これからは、マッカーサーに叱られるようなことをする>といったという。晩年に書いた次の文が伊作の生き方を見事にいい表している。 <私はプロレタリア独裁の下でも君主専制下でも自由主義や民主主義の社会の中でも、どんな政府の下にでも自分が置かれた場において自分の利益になることを見出し、自分を楽しくさせることができると思う>
私には伊作がとてもやんちゃな人間に思えた。やはり伊作は天性の芸術家であったのだろう。私は「きれいな風貌 西村伊作伝」を読みながら、正岡子規と伊作を重ね合わせてみた。
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