1899(明治32)年、森鴎外は小倉の第12師団軍医部長に任ぜられ、小倉に住むことになった。この人事は左遷だといわれている。 鴎外は19歳で東京大学の医学部を卒業すると、西周のすすめもあって陸軍の軍医となった。それからドイツ留学を経て、鴎外はエリートコースをまっしぐらに登っていった。一方、文学の方面でも人に知られ、30代の若さで文壇の大御所と見られていた。 小倉勤務はエリートコースからそれたコースであったのかもしれない。鴎外はそのとき離婚して独身であったので、単身で小倉に住むことになった。小倉での生活はのどかなもので、鴎外はフランス語や仏教哲学を勉強した。 後年、小倉時代のことを扱った「二人の友」などの随筆を書いた。二人の友とは僧侶の安国寺と福間博のことで、この二人は鴎外が東京へ転勤すると、その後を追って東京に行き、鴎外の自宅近くに住んだ。 鴎外は小倉時代も日記をつけていた。この日記を「小倉日記」という。ところが、この日記が鴎外の死後、紛失してしまった。「小倉日記」は鴎外の小倉時代を知る重要な資料なので、鴎外の研究家たちは血眼で探した。結果的には、戦後になって「小倉日記」は発見されるのだが、「小倉日記」が発見されずにいたある時期、一人の青年が必死になって鴎外の小倉時代のことを調べた。 松本清張の『或る「小倉日記」伝』はその青年のことを書いた短編である。 私は高校生の頃から清張の大ファンである。高校生のときは来る日も来る日も清張の作品をむさぼり読んだ。その延長で『或る「小倉日記」伝』を読んだのだが、読んで違和感を覚えた。この作品が推理小説でなかったからである。だが、私は読んで、いいようのない感銘を受けた。主人公の孤独に対して私は深く同情した。たいへんな名作だと思った。清張は純文学者としても超一流だと思った。『或る「小倉日記」伝』で清張は芥川賞を受賞した。
田上耕作は鴎外の研究家であった。田上は小倉市に住み、特に鴎外の小倉時代のことを調べた。 田上は身体が不自由であった。生まれたときから口をあんぐりと開けて閉まらず、いつも涎を垂らしていた。そのためうまく口をきくことができなかった。左足も麻痺していて、思うように歩くこともできなかった。 田上の母親は田上ふじといってたいへん美しい人であった。ふじは一人息子の田上を深く愛した。すべてを子どものために投げ出した。 田上は身体は不自由であったが、頭はよかった。田上は学校を卒業すると、就職できなかったが、友人から鴎外のことをきき、鴎外のことを研究することを決めた。鴎外のことを調べるのが、田上の生きる目標であった。ふじはこれを喜び、心の底から応援した。 田上は鴎外が小倉時代に知った人を訪ねたり、鴎外と縁のある場所に行った。成果はあがり、徐々に鴎外の小倉時代が明らかにされた。この研究を纏め、鴎外研究の大家に送ると、大家はその研究を褒めた。 田上は不自由な身体のため、取材に行くと、よく馬鹿にされた。そんなこと調べて何になるのだともいわれた。そんなとき、田上は絶望感に襲われた。そのたびに、ふじが元気づけた。 田上はいつしか動けなくなり、結局、戦争中に死んでしまった。ふじは田上の遺骨と田上が書いた草稿をもって郷里の熊本に帰った。
私は田上のことを思うといたたまれない気持ちになった。それと、ふじが哀れでしょうがなかった。 清張は貧しい青年時代を過ごした。苦労に苦労を重ねて、文学の志を忘れず、大作家になった人である。ふと、自分の青年時代と田上のことが重なったのかもしれない。 |