東京都心の郊外の三鷹にある禅林寺には2人の文豪が眠っている。言わずと知れた太宰治と森鴎外である。太宰の命日である6月19日の桜桃忌には大勢の人が訪れる。その太宰の墓の斜め向かいに鴎外の墓がある。鴎外の命日は7月9日で鴎外忌というが、こちらはあまり人がこない。もともと鴎外の墓は向島弘福寺にあったが、関東大震災のため、禅林寺に移された。
弘福寺の頃から、鴎外の墓に足繁く通って墓の掃除をした1人の文豪がいる。永井荷風である。鴎外は、その業績、地位からいって、多くの人から尊敬を得ているが、荷風ほど鴎外に対して私淑している人を私は知らない。荷風の鴎外について書いたものを読むとその底に深い尊敬の念があることが読みとれる。私が鴎外を本気になって読もうと決心したのは荷風の「断腸亭日乗」を読んでからだ。 荷風は書いている。 <明治の精神を本当に理解しようと思ったら、鴎外先生と幸田露伴先生を読むことだ> 荷風は戦前東京の麻布に住んでおり、禅林寺に行くには、渋谷に出て、それから今の井の頭線にのって吉祥寺まで出、それから三鷹へと向かった。おそらく1日仕事であったろう。荷風が箒(ほうき)と塵(ちり)取りをもって鴎外の墓を掃除している光景を想像すると微笑ましくなる。
大学を出ていない荷風が慶應義塾の文学部の教授となり、「三田文学」の創刊をすることになったのは、鴎外の力が大きい。慶應義塾は鴎外の許に文学部の教授として誰か適任者はいないかと相談を持ちかける。鴎外は京都帝大教授の上田敏(英文学者:名訳「山のあなたの空遠く 『幸』(さひはひ)住むと人の言ふ」は有名)を推薦するが、上田敏はこれを断り、代わりに荷風を推薦する。鴎外は荷風の文学的才能を認めていたから、難なく荷風は慶應の文学部教授となる。「三田文学」のその後の繁栄の基礎は間違いなく荷風が築いたものだ。
太宰と鴎外も少なからぬ縁がある。太宰が実際に鴎外と会ったというのではなく、太宰が鴎外の作品の大ファンであったという意味においてだ。太宰の書架には鴎外全集が並び、ちょくちょくそれを取り出して読んでいた。落語の「芝浜の革財布」<飲んだらまた夢になるというあれである>についての随筆や、「女の決闘」などは鴎外全集を読んで想を得たものである。太宰もまた鴎外を深く尊敬していたのである。ただ、軍服姿の鴎外には太宰は閉口した。
さて、今回の名作は鴎外の「雁(がん)」である。 もし、鴎外が「雁」を書かなかったら、彼の評価はどうなっていただろうか。大文豪、大知識人であることは変わりがないが、鴎外の業績から、小さく光り輝いていた大変大切なものがなくなったようで寂しくなる。 私は鴎外の夥しい作品の中では、特に「雁」と「山椒大夫(さんしょうだゆう)」が好きである。「雁」では<日本の女>、「山椒大夫」では<日本の母>が見事に描かれている。
「雁」が雑誌「スバル」に連載されるのは明治44(西暦1911年)年9月からであるが、完成された作品として世に出るのは大正4(西暦1915年)年である。鴎外の晩年の作といってよい。鴎外は主人公お玉に対して、自分の生きてきた人生に対する懐かしさそしてどうしようもない恨みのようなものを重ねているように見える。 お玉は美しい娘である。父と2人暮らしであるが、生活は大変苦しい。貧しく美しい娘が決まって辿る道を、お玉もまた辿ることになる。お玉は高利貸の末造の妾になったのだ。娘の希望はただ1つ。父を楽にさせることであった。そのため、世間から高利貸の妾として貶められても耐えることができた。 だが、そのお玉も女であった。自分の家の前を散歩で通る医科大学生の岡田を格子窓を通して、何回となく見るうちに、岡田に惹きつけられていく。そんなとき、お玉の家の格子窓の上に吊るしてある鳥籠を青大将が襲う。それをたまたま通りかかった岡田がみて、青大将を退治する。お玉はこのとき岡田にお礼の一言も言えなかった。だが、この岡田の行為が決定的となって、お玉の気持ちは全面的に岡田に傾く。なんとしてでも岡田と話を交わすことがお玉の切実な願いであった。高利貸である主人の末造がお玉の許へ来ないある日、お玉は岡田と話を交わせそうな機会をもったが、それもだめであった。岡田はお玉の家の前を2回通ったが、最初は岡田と語り手の僕の2人、次は岡田と僕と石原の3人が一緒で、お玉は岡田を見るだけで声をかけることができなかった。お玉はただじっと岡田を見つめるだけだった。そのお玉の目は美しく、底には無限の残り惜しさが含まれていた。翌日、岡田はドイツへと旅立った。お玉は岡田と一言もことばを交わすことなく、永遠の別れとなったのだ。
若き日の鴎外はドイツに留学し、「舞姫」のエリスのモデルとおぼしき女性と恋仲になった。後ろ髪をひかれる思いで日本に帰ってきた鴎外は、軍医として、文人として大出世する。誰もが羨む成功の人生である。 だが、晩年になって、鴎外が過去を振り返ったとき見たものは何だったのか。そこに見たのはお玉の無限の残り惜しさを含んだ美しい目であったのかもしれない。
「雁」には「高瀬舟」や「阿部一族」に見られる思想的葛藤もなければ、「青年」「ヰタ・セクリアリス」に見られるような哲学者も知識人もいない。登場するのは薄幸な娘お玉とそれを取りまく市井人であり、舞台となるのは明治13(1880年)年のある短い期間の本郷界隈である。短い期間と狭い空間に、鴎外は自分の人生を凝縮させ、そして見事に<日本の女>を描くことによって、最高の芸術作品を作り上げたのである。
鴎外は石見人(現:島根県)森林太郎として死にたいと遺言した。人生の終わりのときをむかえて、鴎外には一切の栄誉、称号は無意味だったのである。自由気ままに生き、栄誉、称号とはまったく無縁の太宰治と向かい合って眠るのも、鴎外には心地よいものかもしれない。
今年の7月9日、禅林寺に鴎外を訪ねていきたくなった。 |