私は漱石の作品の中で繰り返し読む作品が3つある。「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「三四郎」である。これらの作品は何度読んでもおもしろいし、読むたびに新しい発見がある。 「三四郎」を初めて読んだのは高校生のときで、読んだあとどうしても三四郎池を見たくて東大にまで足を運んだ。そのとき、三四郎池を見た感動よりも東大の構内のあまりの広さに感動した。さすが日本の大学の頂点に立つ昔の東京帝国大学だと感動しながら、漱石もここで勉強したのかと思うと感慨はひとしおであった。
九州から東京帝国大学に入学するために上京した三四郎が野々宮に会ったあと行ったのが大学構内にある池であった。そこで美禰子(みねこ)と運命的な出会いをする。このとき2人の恋は始まったともいえる。 しかし、恋の行方にはある予兆がすでに用意されていた。それは、三四郎が上京する折に名古屋で偶然一夜をともにした女から「あなたは余っ程度胸のない方ですね」といわれたことだ。この言葉は非常に象徴的である。「度胸のない」とは「踏み超えられない」ことである。三四郎と美禰子との恋は「踏み超えられない男」と「踏み超えようとする女」との格闘といえなくもない。 今回新しい発見をしたというのは美禰子が三四郎に貸した30円のことである。三四郎は与次郎に20円貸したのだから美禰子は三四郎に20円貸せばよかったのだが、実際は30円貸した。30円に意味があるのかそれとも30に意味があるのか。
30といえばキリスト教徒で、聖書に精しい人ならたいていはその意味することは知っている。ユダはキリストを銀貨30枚で裏切った。別のいい方をすればユダは銀貨30枚で魂を売りわたしたのである。美禰子は敬虔なクリスチャンであり、聖書のマタイ伝にのっている迷える羊を引用して自ら迷える羊といっているぐらいだから彼女はまちがいなく30の意味を知っていたはずだ。美禰子は三四郎に30円貸すことによって彼の魂を買ったのだ。逆にいうと三四郎は美禰子に魂を売ったのである。魂を売ったのであるから三四郎は踏み超えなければならなかったのである。 美禰子が30円を返してもらうことにこだわらなかったのは、返してほしくなかったからである。三四郎は何もできずに、インフルエンザにかかり、その間に美禰子の結婚は決まってしまった。30円のお金は美禰子のもとへと戻った。こう考えてみると、美禰子とは一体どんな女なのだろうかとつい思ってしまう。漱石にいわせると「無意識の偽善者」らしいのだが、どうしてどうして「意識した悪魔的な女」といえなくもない。「悪魔的」とは「踏み超えよう」とすることである。
私が「三四郎」が好きな理由は三四郎も美禰子も踏み超えなかったからである。だからこそ「三四郎」には「それから」以降みられる暗さも絶望もないのである。踏み超える直前で学生・知識人を含めていろいろな人が滑稽的に右往左往する。 それではなぜ三四郎は踏み超えられなかったのか。それは与次郎、広田先生、母親そして三輪田のお光などがいる世界に三四郎がいたからである。特に、お光が強力な磁石となって三四郎が別の世界にいかせなかったのだ。「三四郎」の中ではお光はみごとなかくし味となって緊張感をときほぐす役目もしている。漱石の演出のうまいところである。ことあるごとに母親から手紙がきて、そしてお光のことが触れられている。 お光は美禰子とは対極に位置する女である。ピアノもバイオリンもひかないし、英語もわからない。綿入を縫うのが得意である。おまけに色が黒く、おそらく香水なるものはつけたことがないであろう。結局、三四郎はお光のいる世界に踏みとどまるのである。 「三四郎」の中では美禰子1人だけが別の世界にいる。マタイ伝にあるように、美禰子は百匹の羊のうちの迷い出た1匹の羊であったのだ。そして、誰もこの1匹の羊を見つけることはできなかった。
ではなぜ美禰子は迷ったのか。それは彼女自身が告白している。 <われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり> 漱石はもともと美禰子を罪あるものとして設定してある。何の罪かは私たちにはわからないし、まして三四郎は救ってやることができなかった。結婚しても彼女の罪は消えることはない。
美禰子の罪とは何か。これはおそらく漱石文学の核心をなすものであろう。「それから」以降この罪との血みどろの戦いが始まるのである。
でも、漱石は美人で罪があって孤独な悪魔的な女を創りあげたのである。
(写真は、東京大学構内にある三四郎池) |