「明暗」は漱石最後の作品である。完結することなく未完に終わっている。仮りに、「明暗」が完結しても漱石が追求するものに完結はないであろう。螺旋階段のようにぐるぐる廻りながら高みに行くような感じである。これこそ大作家の証明であるのだが。 「明暗」は最後の作品ではあるが、私には全く新しい小説に思われた。それまでの作品とはあきらかに異質である。その点をいくつか挙げてみる。まず、登場人物の層が厚くなったことである。たとえば小林なる人物を登場させている。この男は卑しくそして陰気で唾棄すべき性格の持ち主であるが、どこか知的で人類に対する愛情も持っている。どこか悪魔的である。このような人物はそれまでの作品には1人たりともでてこない。小林は仕事もせずに人にたかって生きているような人間で、高等遊民とはかけ離れた存在である。ドストエフスキーの作品にでてくるような人物である。実際、「明暗」の中で小林はドストエフスキーについて言及している。 次に新しい点は女性が自分を主張することである。「明暗」の主人公は津田という男だが、津田にはお延という妻とお秀という妹がいる。この2人がびっくりするぐらい自己主張するのである。それまでの漱石の作品では、「三四郎」の美禰子、「それから」の三千代、「門」のお米にしても自己主張はしなかった。「明暗」で初めて漱石は女性に自己主張させたのである。 新しさの3つ目は時間の流れである。「明暗」は未完とはいえ、漱石の作品の中では最も長いものであるが、小説の時間の経過は10日に満たない。あのドストエフスキーの「罪と罰」も7日以内の物語である。「明暗」は非常に緊張した小説ともいえる。
それでは漱石は全く異質な作品でもって何を言いたかったのであろうか。「こころ」を書き上げた漱石は「則天去私」の境地に達していた。はたして「則天去私」が「明暗」のモチーフなのだろうか。私はやはり「私」を去ることのできない人間を描いたと思う。振り出しに戻ったように漱石は人間はエゴの塊であることを舞台設定を広くそして深くして追求しようとしたのではないか。その果てに何か救いのようなものをほのかではあるが見つけようとしたらそれはとりもなおさずドストエフスキーの世界である。私は「明暗」が世界文学の域に達していることを強烈に思った。「明暗」は漱石が成長し続ける作家であることを示した作品である。私は漱石がドストエフスキーの後を追いかけているように思えてならない。
「明暗」は津田という会社員を中心に展開する物語である。物語は津田が痔で入院するところから始まる。津田には結婚して間もない妻のお延がいる。津田が勤める会社の社長夫婦が仲人をした。表向きは仲のよい夫婦である。ところが、お延は津田に対して不安を感じていた。それは津田には自分以外に愛している人がいるのではないかという不安である。津田の旧友と称する小林が津田の留守に訪ねてきたとき、お延は小林の物言いからその不安が間違いないものであることを確信した。 津田に対する疑心暗鬼の中、お延は津田の妹のお秀と津田の病室で言い争う。お秀は津田夫婦の自己中心的な姿勢を責めたのである。お延もそれに対して反論する。この女2人の言い争いは決着がつかなかった。 実際、津田は昔の恋人清子のことが忘れられなかった。津田は病院を退院するとそそくさと、清子がいるという温泉地へ療養をするとお延に言ってでかけた。そこで津田は清子と再会する。ここで絶筆となるのである。
漱石は小説のタイトルには神経を使わなかったいうが、この「明暗」というタイトルはかなり考えたのではないだろうか。「明暗」は人間関係の明るい部分と暗い部分を見事に描いた作品である。
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