日本とロシアの緊張は幕末から続いており、1904年の日露戦争でピークに達した。20世紀になると日本はロシアとの戦争を本気になって考え始めた。 もし、日本とロシアが開戦してロシア軍が津軽海峡を封鎖したら、青森の津軽海峡に面した海岸線は機能しないと陸軍は危惧し、そのときには少し内陸に入った八甲田山を通らなければならないと決断した。そのために冬の八甲田山を踏破できるかできないかの実験をしようとしたのである。これが歴史上有名な八甲田山雪中行軍である。結果としてこれは悲惨な遭難事件となった。 この雪中行軍は日本帝国陸軍史上最悪の演習だったといわれている。この悲惨極まりない遭難事件は報道され、日本中が騒然とした。真相は陸軍によってひた隠しにされたが、事件のことは人々によって語り継がれた。八甲田山雪中行軍遭難事件は明治の暗さを象徴するものであった。 八甲田山雪中行軍遭難事件のことが現代において詳しく知られるようになったのは新田次郎が「八甲田山死の彷徨」というすばらしい小説を書いたからである。私はこの本を始めて読んだとき、深い感銘を受けた。以来何度も読み返した。この本が単に陸軍という軍隊組織の非人間性を追及しただけのものだったら私は何度も読み返さなかったであろう。この本には極限状況に追い詰められた人間の赤裸々な姿と自然の想像を超えた恐怖が見事に描かれている。何度読んでも胸を打たれる。
明治35年、陸軍第8師団は来たる日露開戦を想定した準備演習として真冬の八甲田山を踏破するという雪中行軍を青森第5連隊と弘前第31連隊に命じた。青森第5連隊は青森から八甲田山を右回りに、弘前第31連隊は弘前から八甲田山を左回りに行軍するコースをとった。 2つの連隊はともに中隊の編成で、青森第5連隊は神田大尉、弘前31連隊は徳島大尉が指揮をとることになった。だが、青森第5連隊では大隊本部が随行することになり、指揮は大隊長の山田少佐がとることになった。これが青森第5連隊を悲劇へと導く直接の原因となった。山田少佐は士族で仕官学校出のエリートであり、神田大尉は平民で陸軍教導団出身であった。 神田大尉も徳島大尉も優秀な将校であった。最初に出発した徳島大尉率いる弘前第31連隊は村人を案内人に立てて計画通り行軍し、無事に成功した。対する青森第5連隊は神田大尉でなく山田少佐の指揮のもと行軍した。山田少佐は村人を案内人として使うことに反対した。磁石があればだいじょうぶだとしたのである。また、山田少佐は真冬の八甲田山を甘くみていた。これらの状況に折からの未曾有の悪天候に見舞われ、青森第5連隊はすぐに立ち往生し、方向を見失った。兵たちは氷点下20度の中をさまよい始めた。 ばたばたと兵たちは凍死していった。中には発狂するものもいた。服を脱いで大声をあげて死んでいった。服を着たまま尿をだしそのまま凍りついた。兵隊たちの阿鼻叫喚は地獄絵図そのものであった。 ほとんどの兵たちは氷に覆われて死んでいったのである。結局、隊員210名中生存者はわずかに11名だけであった。山田少佐も生存者の中にいたが、入院した病院で拳銃自殺した。
第5連隊がなぜ失敗したかは火を見るよりあきらかである。用意周到に準備してきた神田大尉をさしおいて階級が上だというだけの山田少佐が指揮をしたからである。 四民平等になったはずの明治には官僚・軍人という新たな特権階級がつくられた。この場合の軍人というのはいわゆる職業軍人である。兵卒は一般市民から徴用された。明治政府から遭難死した兵たちの遺族に一時金が送られた。その額はなんと兵を殺した責任者の山田少佐には1500円、一般人から徴用された兵卒は250円であった。死んだ兵たちの墓もつくられた。山田少佐が一番立派の墓であった。これらのことが軍隊というものを見事に象徴している。 |