直江山城守兼続(かねつぐ)の評価は2分されている。家康をも脅かした知将としての評価と腹黒い策謀家としての評価である。 私は戦国時代の武将の中で一番好きなのは織田信長である。信長の発想の斬新さには驚かされる。信長の勝利の一因は鉄砲の使い方にあった。当時の鉄砲は火縄銃で、弾を込めてから火をつけるのであるが、実際に撃つまでには多少の時間がかかる。それが火縄銃の欠点であった。 信長は鉄砲隊を横3列にして、1列目が撃つと1列目の兵は3列目に下がり、2列目のが前に進みでてそして弾を撃つ。順次これを行う。弾を撃ち終わった兵は次に撃つまでに弾をこめ火をつけて待つ。このようにすると弾を間断なく撃つことができるのである。こうして信長は敵を駆逐していった。 この鉄砲の使い方を激賞したのが坂口安吾である。安吾の信長好きは有名である。信長は武田信玄と上杉謙信に対して恐怖心といってよいほどの警戒心をもっていたといわれる。多くの歴史家は武田と上杉が本気になって天下取りをめざしたら信長はひとたまりもなかったであろうという。だが安吾の見る目は違う。信長は2人とも蹴散らしたであろうという。どだい信長と武田・上杉とはスケールが違うというのだ。それほど安吾は信長に惚れていたのである。私も安吾と同感である。 戦国の武将の中で、もう1人安吾が惚れていた武将がいる。直江山城守兼続である。私は安吾の「直江山城守」を読んで直江兼続に興味をもった。それまで直江兼続は私には印象が薄かった。上杉家の家老ぐらいしか頭になかった。
直江兼続は上杉景勝を領袖とする上杉家の家老である。景勝と兼続の関係は幼いころから続いていた。2人の関係は主従関係というより、兼続は景勝の変わりに戦略を練ったりトップのなすべきことをしていた。景勝は兼続に対して全幅の信頼を置いていた。上杉家の方針は兼続が決め、景勝が了承するという形をとった。 兼続が歴史にその名を残したのは、関が原の合戦において石田三成と結託して家康を欺こうとしたからである。家康の上杉征伐のシナリオは兼続が書いたものだといわれている。家康を白河までおびきよせ、その隙に石田三成が大阪で挙兵して家康の勢力をそぎ落とそうという戦略であった。百戦練磨・手練手管の家康はある程度それを見越して(私は実際のところ家康がわざとそう仕向けたと思うのだが)、白河に向かうのはやめ小山から急遽西に向かった。関が原において家康軍が勝利した。 合戦後、兼続は家康に謝罪した。すべての責任は私にあるといい、いかような仕打ちも受けると兼続はいった。家康は兼続を殺すこともなく、上杉家も潰さないで米沢30万石に移封した。米沢は兼続の領地であった。兄弟の契りを結んだ三成は斬首された。当然兼続も殺される運命にあったのだ。家康は兼続より一回りも大きな人間であった。
兼続は清廉で天下を取ろうという強烈な野望はもたなかった人間だと安吾は見ている。しかし、もし兼続が本気になって天下を取ろうとしたらその能力は十分にあったと安吾は見抜いている。 安吾が兼続に惚れた理由は天下を取れる能力があっても上杉家のナンバー2という天が与えた役割を恬淡として演じたことと、演じたあとの責任のとり方であった。兼続は米沢にいくと清貧のなかで藩ならびに上杉家のために一身を捧げる。兼続は農業の振興をはかった。みずから農業に従事した。また兼続は教養人であった。宋の書物を蒐集したり、漢詩もつくっている。 安吾は次のように兼続をなつがしかっている。
<彼の一生はハラン万丈というべきものであった。身は大名のただの家老でありながら関が原の首謀者の一人であり、そしてその戦争に負けた。しかも彼の一生はどこにもアクセクしたようなカゲリがなく、悠々としてせまらない。鉄のような「責任」の念が確立していなければ、こんな生き方はできるものではない。武人としてまことになつかしい人柄ではないか。>
能力があり無欲であり、そして風流人でもある。さらに、自分の立場を十分にわきまえ責任感がある。安吾がいうように、直江兼続というのは日本人が理想とするなつかしい人柄であったのかもしれない。 |