志賀直哉は明治16年(1883年)に生まれ、昭和46年(1971年)に死んだ。88歳の大往生であった。 志賀の文学活動の期間は長かったが、長編小説は「暗夜行路」1作しか書いていない。他は中編の「和解」を除けば短編ばかりである。志賀直哉は短編作家といってよかった。 志賀の短編は名作ぞろいで、志賀は小説の神様と崇められた。数多くの文学者から畏敬され、その文章は名文の見本となった。谷崎潤一郎・三島由紀夫などの作家が書いた文章読本にはかならず志賀の作品がとりあげられた。小林秀雄も志賀に師事した1人である。 とにかく、日本文学においては短編の名手、そして文章の達人といえば志賀直哉と相場が決まっていた。
私が初めて志賀の作品に接したのは高校生のときで、「網走まで」であった。この作品は教科書に載っていた。心打つ作品であった。読んだあと長い間余韻が残った。 志賀の作品を本格的に読み始めたのは「暗夜行路」を読んでからである。私は「暗夜行路」を読んで志賀のファンになっていた。志賀の作品はどれも文章が簡潔でひきしまっており、そして読みやすかった。彫琢された文章とは志賀が書いたような文章をいうのだと思った。 志賀の活動期間は大きく3期に分けられる。第1期は小説を書き始めてから大正3年までである。ちょうど多感で悩み多い青春期にあたる。この期に書かれた作品の中では私は「網走まで」「清兵衛と瓢箪」が特に好きである。志賀の作品は自伝的なもの、見聞を題材にしたもの、そして想像をたくましくしたものなどがあるが、この2作は見聞を題材にしたものである。見聞を題材にしているとはいいながらその奥には志賀の現実認識そして弱者にたいする共感が滲んでいる。
「網走まで」は語り手の「自分」が宇都宮の友人のもとへ行くとき、汽車の中で見たことが描かれている。「自分」は午後4時発の青森行きの汽車に乗った。混雑はしていたけれどうまく席をとることができた。同時に1人の男の子を連れ、1人の赤子を背負った母親が乗り込んできて、「自分」の席の隣に坐った。母親は26歳ぐらいで色白で髪の毛の少ない人であった。手を引かれてきた子供は7歳ぐらいで顔色の悪い、頭の大きな妙な子であった。癇癪の強いわがままな子に見えた。母親をひどく困らせる存在であるのが「自分」にはわかった。実際、宇都宮に着くまで、その子は母親を煩わせていた。 親子3人の目的地は北海道の網走であった。網走に到着するまでは優に5日間はかかるはずであった。母親は汽車の中で2通の手紙を書いた。「自分」が宇都宮で降りるとき、彼女は「自分」にその手紙をポストに投函することを頼んだ。1通は男宛てで、1通は女宛てであった。
「網走まで」は汽車の中での数時間のことを描いているが、この作品には親子3人のこれからの長い苦難の人生が暗示されているようだ。短編というより大長編を読んだあとの気分にさせてくれる小説である。
「清兵衛と瓢箪」も子供の将来を暗示するような短編である。 清兵衛は何よりも瓢箪が好きであった。1日中瓢箪のことばかり考えていた。もらう小遣いは瓢箪のために使われた。ところが、授業中、瓢箪をいじっているのを先生に見つかった。先生は怒り、そして清兵衛の家に来て母親にひどく注意をした。これが父親の耳に入り、清兵衛は瓢箪と決別することとなった。 清兵衛が学校で見つけられた瓢箪は学校の小使に渡っていた。小使はそれを古道具屋へ売りに行った。それは小使の4ヶ月分の給料にあたる50円で売れた。古道具屋はその瓢箪をさらに地方の金持ちに600円で売った。 清兵衛は現在は瓢箪から離れ、絵に夢中になっている。父親はまだ絵をやめろとはいっていない。
父と対立しながらも清兵衛が将来優れた画家になることが暗示されている。
志賀の短編を読んですぐ気がつくことだが、志賀は子供のことをよく書く。「網走まで」「清兵衛と瓢箪」以外にも子供が中心人物の作品はたくさんある。子供を書くことで、志賀は現実そして理想を表現しようとしたのであろう。 |