志賀直哉という作家は生涯において長編小説は「暗夜行路」しか書かなかった。私は若い頃、志賀の作品集を読んでいるとき、志賀の作家としてのキャリアを考えると、長編小説1作はあまりに寂しいと思ったものだ。 ところが今ではそうは思わない。「暗夜行路」は傑作中の傑作ではあるが、志賀はやはり本質的には短編作家であると私は思っているし、大方の人もそう思っているに違いない。 短編の良し悪しの基準は人それぞれによって違うだろうが、私は基準を、読み終えたあと長編小説を読んだときと同じ気持にさしてくれるかどうかに置いている。名短編はすぐれた長編小説に匹敵するものなのだ。結局、名作に長い短いは関係ないのである。こう考えるまでに私はかなりの読書体験を積まなければならなかった。 若いとき、「暗夜行路」のすごさは何となく理解できたが、正直、志賀の短編を堪能することはできなかった。やはり、文学というものは特に短編小説は読み手が人生経験をして精神的にある程度成長しなければ理解できないものなのかもしれない。 私は40歳を過ぎた頃から、若いときに読んだ作品を猛然と読み返した。ほとんどの作品が初めて読んだ印象をもった。とくに志賀の短編にはびっくりした。とにかくほれぼれとするくらいにうまいのである。特に、「小僧の神様」には畏れいった。長い外国文学を読んだような興奮を覚えた。私はこの短編の中に人生における決定的な原理である<すれ違い>を見事にさわやかに描いているのにただただ脱帽した。「小僧の神様」の主題は長編小説のテーマになってもよいものである。
「小僧の神様」の主人公は仙吉である。仙吉は神田のある秤(はかり)屋に奉公する小僧である。小僧だから金はない。仙吉はよく番頭たちが鮨(すし)の話をしているのを聞いて、1度思い切り鮨を食べたいと思うようになった。 ある日、仙吉はお使いに出された。帰りは電車でなく歩くことにしたので4銭浮いた。仙吉は思い切って屋台の鮨屋に入った。仙吉はもじもじしながら海苔巻を注文したが、鮨屋の主人はそっけなく海苔巻はないといった。仙吉は意を決して目の前に並んでいる鮪(まぐろ)鮨の1つに手をつけた。すると主人に<それは1つ6銭だよ>と言われてすぐ手を引っ込めた。そして仙吉はいたたまれなくてその店を逃げるようにして出た。 そのとき、その場にAという若い貴族院議員がいた。Aは小僧を気の毒に思った。ある日、Aは神田に秤を買いにいった。そこでAは偶然仙吉に会った。Aは仙吉をうまく店から連れ出し、鮨屋に連れていった。Aは店に入らず、仙吉だけが店に入り、そして腹一杯鮨を食べた。仙吉は幸福の絶頂に達した。 鮨屋はAから多額の金をもらっていて、小僧に鮨を腹一杯食べさせるようにとAから頼まれていた。1回の食事ではとうてい預かったお金の分だけ食べられないので、店のおかみは仙吉にまた来るようにと言った。だが、仙吉は2度とその店には行かなかった。 Aは自分の行動をどこか偽善めいていると感じ、うしろめたいようなさみしい気持に襲われた。逆に、仙吉はAのことが忘れられなかった。彼は悲しいとき、苦しいとき、かならずAのことを思った。 物語はここで終わるのだが、物語の最後、作者はコメントを付している。仙吉は思い切ってAの住所をたずねていくのだが、そこにはAの家はなく、ちいさな祠(ほこら)があるだけであったというような終わり方にしようと作者は意図したらしい。
Aにとっては偽善めいたことが、小僧にはそれが神の行いのように思われたのである。人生の不合理さを健康的に捉えた作品といえる。志賀は子供の純真さを通して、人生の奥深さの一旦をかいま見せてくれたのである。 |