司馬遼太郎は私の先生である。もちろん、直接教えてもらったことはないし、謦咳(けいがい)に接したこともない。それでも私の先生なのである。司馬遼太郎自身、<私は先生になったつもりで書いている>といっている。司馬遼太郎は大作家であると同時に、偉大な教育者でもあったのだ。私は本当に本当に司馬遼太郎からたくさんのことを教わった。いくら感謝してもしたりないくらいである。
司馬遼太郎はたくさんの作品を書いた。どれもおもしろい。私は5年ほどかけて司馬遼太郎の作品を読破した。私は人から司馬遼太郎の作品の中で一番のおすすめはときかれたら「ひとびとの跫(あし)音」とこたえることにしている。
「ひとびとの跫音」は正岡子規の息子にまつわる話である。「子規に息子がいるわけないだろう」と目をむく向きもあろうかとおもうが、もちろん実子ではない。死後養子である。子規の死後正岡家の養子となり子規の妹律が育てた。
「ひとびとの跫音」は私小説的随筆といったもので、司馬作品の中では異色の存在である。私はこの作品を読んで、司馬遼太郎の人間をみるまなざしが優しいのを痛感した。それでいて、冷静で感情に流されない。やさしい目ときびしい目、この2つは司馬文学を解くキーワードだと思う。
「ひとびとの跫音」を読んで、私ははっきりと認識した。それは司馬が一番愛した文人はやはり正岡子規だということだ。2番目はおそらく漱石だろう。この作品の中で司馬は子規並びに残された正岡家のひとたちに熱いまなざしを向けている。私はふと思った。「坂の上の雲」の本当の主人公は子規だったのではないかと。
今回の名作は正岡子規の「病牀六尺」である。この作品は随筆で、新聞「日本」に明治35年5月5日から9月17日まで毎日連載されたものである。すなわち、死の2日前まで連載された。
新聞「日本」は陸羯南(くがかつなん)が創刊した新聞で、陸と子規のおじが司法省法学校(今の東大法学部)の同窓で、その縁で子規は「日本」の記者になった。陸はたいへんやさしい人で、子規が苦しんで号泣すると、手をとり<よしよし痛くない、痛くない>と子供をあやすようになぐさめたそうである。 子規は日清戦争に従軍記者として出征したあと、結核が本格的に悪化し、一時郷里の松山に帰省する。そのとき、友人の漱石が松山中学で教鞭をとっていて、子規は漱石の下宿にしょっちゅう入りびたった。このとき、漱石は本気になって俳句作りを試みる。 東京に戻った子規は33歳になると、結核が体中にひろまり、寝たきりの状態になる。その後の子規の肉体的・精神的苦痛は想像を絶するものがある。阿鼻叫喚の世界である。苦しいときには泣き叫ぶ。モルヒネが最愛の友となる。そんな状態でも子規は毎日随筆を書き続けていく。それはまさしく生きる証を求めるために書いているようなものであった。
私は高校生の頃から文学に親しみ、50歳を超える現在まで時間の許す限り古今東西の名作といわれるものを読み漁ってきた。読んだ作品の中で、出だしの文に最も感銘を受けたのはまぎれもなく「病牀六尺」である。
<病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。>
この文に接したとき私は声もでなかった。絶句したといってよい。「病牀六尺」の読後感は「絶句」の2語でたりる。人間の偉大さ、想像の無限性がこの文に詰まっており、逆に、私は自分の心の矮小さを思い知らされた。
「病牀六尺」のすごいところは、暗くないことである。むしろ明るいともいえる。私は子規に対してとてつもなく親しみを感じる。やんちゃで賢くて、勇気があって人が嫌がることを平気でずけずけいうが、何よりもユーモアがある。さすが、漱石の無二の親友である。
「病牀六尺」の中で、子規はいろいろな話題に触れている。絵画、俳句、政治、写生、料理、そして家庭教育の大事さを何度となく説いている。 全127回の随筆の中で私が一番好きな文章は21回(6月2日)の次の文章である。 <余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。> 司馬遼太郎が正岡子規を愛する理由が私ははっきりわかった。
『写真:中央区日本橋浜町の交差点にある国学の祖賀茂真淵(かものまぶち)の碑。正岡子規は明治16年6月に松山にある中学校を中退して東京に来た。そのとき起居したのが日本橋浜町の旧藩主邸の久松家のお長屋でした。(司馬遼太郎:坂の上の雲より)』 |