「破戒」を再び読んだ。最初にこの小説を手にとったのは、大学生のときである。そのときは読んだ後、やる方ない憤りを感じた。この日本にこんな非人間的かつ非人道的な因習が、それも明治の世に存在していたと認識して唖然としたものだ。
私は川崎で生まれ育った。そのせいか部落問題のことは大学生になるまで知らなかった。東京並びに東京近郊で生まれ育った人たちも大方私と同じように部落問題には関心がなかったというより知らなかった。あの文豪坂口安吾でさえ、京都に住んで初めて、部落問題の根深さを思い知ったほどだ。安吾は新潟で生まれ、東京で学生生活をし、そのまま東京に住むようになった。岡林信康(日本のフォークの神様である)の名曲「手紙」が部落問題を扱った曲であることも知らないで、中学生の私は口吟んでいたのだ。そんな私にとって、やはり「破戒」は衝撃的であった。
藤村の作品の中で、初めて読んだのが「破戒」であった。そして、後年、私は藤村の作品に親しむようになり、かれの生き方そのものに興味をもつようになった。今では、私は藤村その人に一種の畏れのようなものを感じている。藤村は狂気と忍耐の人であった。あるときは気違いのように本能のままに行動し、あるときは宗教家のようにじっと耐える。こんなイメージを私は藤村に対してもっている。正直言えば、「破戒」以上に衝撃的だったのが「新生」である。この作品を書いている藤村に狂気を感じ、そして身震いした。逆に「家」を読んだときにはひたすら忍耐する藤村を思った。
若い頃読んだ「破戒」は私にとってはあきらかに社会小説で、非人間的な因習を告発する書であった。「破戒」が社会小説の一面をもっているのは誰もが否定できない事実である。今回、「破戒」を読み直してみると、社会を告発する社会小説のイメージは残したまま、小説いわゆる物語としてよくできていると感じた。「破戒」が出版されたのは明治39年(1906年)で、それから現在まで1世紀以上経っている。この長い期間、大勢の人に読み継がれてきたのはこの物語性があったからではないのか。物語にはモチーフがある。「破戒」の場合のそれは、思春期の青年の苦悩、それも宿業的な運命を荷わされた青年が苦悩しているということだ。この苦悩はシェイクスピアの「ハムレット」、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフの系譜に連なるものである。ハムレットは実の父親を伯父に殺され、そして実の母親もその伯父に奪われたという宿命をもっている。ラスコーリニコフは、偉大な思想のもと金貸しの婆さんを殺したとき、思いもかけず婆さんの妹のエリザベートまで殺してしまう。ハムレットにしてもラスコーリニコフにしても悩むのが仕事のような若者だ。
「破戒」が「罪と罰」を下地にして書かれたことはつとに有名である。特に、風間敬之助一家はマルメラードフ一家そのものといってよい。敬之助の先妻の子である長女のお志保はマルメラードフの先妻の子ソーニャと重なっている。2人とも継母にいびられ家族を救うために、体を売るはめになる(ソーニャは娼婦に、お志保は寺に養女に出されるが寺の義父の住職に手ごめにされる)。敬之助の性格、行動パターンもマルメラードフそのものである。
「破戒」と「罪と罰」の類似は登場人物やシチュエーションだけではない。決定的な類似がある。それは「告白」である。ラスコーリニコフにとって「告白」は自分が殺したということであった。丑松は、自分が部落出身であるということである。
藤村にとって、いや丑松にとってか、部落出身であると告白することは、自分が殺人者であると告白することと等しかったのである。
なぜ、これほどまでに「告白」に重きをおくのか。
丑松は作られた人間ではあるが藤村の分身とも思える。藤村自身、丑松に仮託して「告白」したかったのだ。藤村は自分の背負う宿命を「告白」したかったのだ。その宿命とはとりもなおさず、島崎家の血である。
藤村が「夜明け前」を書くことによって、作家としての掉尾(とうび)を飾るのは必然であったように思える。「夜明け前」の主人公は、藤村の父親がモデルになっているが、藤村その人としても見ることができる。主人公は最後は狂い死にするのである。 宿命的な運命を荷わされた人間が告白するということ、これこそ藤村にとって小説を構築する上で重要なモチーフであったのだ。そのため、物語は周到に、そして綿密に準備されていく。
「破戒」にしても「罪と罰」にしても、その文学的価値を高めているのは救いがあることだ。特に「破戒」においては告白したあと、丑松はアメリカのテキサスに希望をもって人生再出発の途につく。そして愛するお志保とも結ばれることになる。「破戒」が読むものに勇気を与えるのはこの結末があるからだ。
見方を換えれば「破戒」は悩み多き青年の心理を描いた青春小説ともいえなくもない。希望を失い、行き場がなくなり、自殺を考える。それでも心の底では生きていたいと思う丑松の心理状態は、何も丑松1人だけのものではなく、ネバ河に架かる橋の上で思い悩むラスコーリニコフもそうであるし、多くの青少年が1度は経験する心理状態でもある。
「破戒」が現代でも、たくさんの人の共感を呼ぶのは、悩み苦しみながら、生きたいと痛切に思う気持には時代の差、環境の差はないということだ。 |