奈良県吉野といえば日本の歴史の上で何回となく顔を出す。それも歴史が大きく動くときに現れるのである。古くは天智天皇亡き後、天智天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子供の大友皇子が壬申の乱を起こす際、それまで大海人皇子は吉野宮にいた。 吉野を歴史上最も有名にしたのは、天皇家が南朝と北朝に分離したとき、南朝が吉野に置かれたことである。明治時代は南朝のことを吉野朝と称したように、吉野は政治の中心であったわけだ。南朝で、後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇が政治をとった。室町幕府の将軍足利義満が調停にのりだし、後亀山天皇は京都に帰り、後小松天皇に神器を渡して南北朝合体がなった。 吉野は何も政治の中心であったから歴史の上に登場したわけではない。大和にあって、近くに熊野を控えているという地理的条件から、哀れを催すような薄幸な人たちが多く吉野を訪ねてきた。その中には、悲劇の英雄源義経とその愛妾の静御前がいる。静御前は吉野で捕えられ、鎌倉に送られた。静御前が鎌倉八幡宮で、頼朝夫婦の面前で舞を踊ったのは有名である。そのとき彼女がうたった歌は亡き義経を慕うものであったという。 吉野は日本人にとって心の故郷のようなところである。吉野に行けば私たちは何か神秘的で温かく心をなぐさめてくれるものに出会いそうな気がする。
谷崎潤一郎の「吉野葛」は吉野の神秘性を余すところなく描き出したたいへん美しい作品である。 「吉野葛」は随筆的に書かれている物語で、谷崎本人である「私」が語り手である。 「私」は既に20数年前、高等学校時代の友人津村に誘われて吉野へと出かけた。南朝最後の天皇である後亀山天皇の玄孫(孫の孫のこと)である自天王のゆかりの地や静御前がたたいたという鼓を見に行こうとしたのである。 吉野に出かけたとき、「私」は友人の津村からはじめて津村の生い立ちのことを含めた身の上話を聞いた。津村は「私」と一高時代の友人で、「私」は高等学校を卒業するとそのまま大学へ進学したが、津村は一旦大阪の実家に戻るといったきりそのまま学業をよしてしまった。 津村は幼い頃両親を亡くしている。父はもとより、母の顔すら記憶になかった。幼いときから大人になるまで津村は母のことを思い続け、その面影を追い求めた。狐が化けた母でも一目母に会いたいと思った。 津村は家にある母の形見をすべて調べ、母のことを必死で探った。その結果わかったのは母が遊女であったことである。母の実家は由緒ある家であったが、明治維新になり商売がうまくいかず、三女であった母は大阪の遊女屋に売られた。遊女になったばかりの十代半ばの母を父となる男が見初め、身請けしたのである。津村は母の実家が大和吉野にあることを突き止め、すぐさま吉野へと向かった。津村は吉野の村を虱つぶしに探し、母の実家を見つけた。その実家には母の実の姉が健在であった。 今回津村が「私」を誘って吉野に来た一番の目的は、母の実家に出入りする農作業の手伝いをする親戚の女の子に求婚するためであった。その女の子は美人ではないけれど、津村には母を偲ばせてくれたのである。 その女の子が現在の津村夫人であった。
子が母を思うことは最高の傑作である「少将滋幹の母」をあげるまでもなく、谷崎文学の1つの大きな主題である。 「吉野葛」は吉野という土地の神秘さ・美しさを醸しながら、母と子の情愛を美しく描いている。読めば読むほど思わず唸ってしまうほどの名作であり、自然・歴史・人間の情が渾然一体に織り成された最高の芸術作品である。 |