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読書感想文
 
徳富蘆花「不如帰(ほととぎす)」を読む

芦花公園にある徳富蘆花旧邸 徳富蘆花といえばいわずと知れた徳富蘇峰の弟である。この兄弟は性格が全く違う。兄の蘇峰は野心満々の人で、民友社を創立し、「国民之友」、「国民新聞」などを発刊し、ジャーナリズム界の大御所となる。蘇峰自身も評論家として活躍する。そして、蘇峰は反体制派の立場から体制派へと変節し、太平洋戦争まで体制派言論人として生き続ける。
 弟の蘆花は、行動的・目立ちたがりの兄とは反対に、癇癪持ちではあるが、繊細でシャイな人間であった。兄は政治の世界に進むが、弟は文学の世界へと進む。一人、自分の世界に閉じこもって世を送る。
 2人には共通点がある。ともに同志社英学校に学び、キリスト教の影響を受けていることだ。2人ともロシアのヤスナーヤポリーナまで出向き、トルストイに会っている。特に、蘆花はトルストイに心酔していた。蘆花は兄の蘇峰と対立し、絶縁状態になる。蘆花はトルストイと同様人間愛に満ちた人であった。

 初めて蘆花の「不如帰」を読んだときは正直驚いた。読んだあとの感想は「蘆花がこんなセンチメンタルな小説を書いていたんだなー」であった。といっても私はそれまで蘆花の作品といえば「思出の記」しか読んではいなかったが。
 私は「不如帰」を読んだ理由は間違いなく「不如帰」が明治の大ベストセラーだったからだ。明治31年に国民新聞に連載されて本になり、明治42年には100版を重ねている。現在でも、本は読んでいなくても、「不如帰」の内容を知っている人は多い。そういう意味では尾崎紅葉の「金色夜叉」、伊藤左千夫の「野菊の墓」と並び称される国民文学なのかもしれない。
 今回、「不如帰」を再び読んだ。やはり哀しくせつない物語である。「不如帰」の主人公は浪子。明治の元勲大山巌元帥の娘信子がモデルだといわれている。片岡中将の娘である浪子は川島家の嫡男武男に嫁ぐ。誰もがうらやむ結婚であった。2人は幸福な新婚生活を営む。物語は、上州伊香保で2人がたのしく遊ぶ場面から始まる。
 川島武男は海軍少尉で男爵である。将来を嘱望され、浪子の父親である片岡中将からは実の息子のように可愛がられる。だが、好事魔多し。2人の幸福な生活は長くは続かない。浪子が胸を病んだのである。浪子の病気は肺病であった。浪子の母親も肺病で亡くなっている。浪子は東京から逗子へと転地療養する。
 浪子・武男の仲を割くのは肺病だけではなかった。時は明治。まだまだ江戸時代から続く「お家大事」という因襲的考えが残っていた。武男の母親のお慶がその因習の塊であった。お慶は武男が海軍の勤務で長期間家を留守にしている間に、浪子を離縁し、里に帰してしまう。
 武男は海軍の勤務から帰り、浪子のことを聞くと激怒し、母親のもとから去る。折りしも日清戦争が始まっていた。武男は艦隊に乗り込み、清の最強軍艦定遠鎮遠と相まみえるが、武男の乗る軍艦は砲弾を浴び、武男は負傷する。武男は九死に一生を得るが、浪子のことは心の中からは消えない。
 別れ別れになった2人は偶然、京都駅で顔を合わせる。浪子は東京へ向かう列車に、武男は神戸に向かう列車に乗っており、お互いを見たのである。まさに瞬間の逢瀬であった。これが最後の別れになった。ほどなく浪子は亡くなり、青山墓地に眠ることになる。

 やはり、この作品のテーマは不条理を追求したものであろう。愛するものたちが引き離される。これほど不条理なものはない。この作品で胸を打たれるのは、浪子の父片岡中将の、娘に対する愛情の深さである。親が子を思う気持は深い。
 この「不如帰」は蘆花夫婦がある夏の逗子で、偶然、同居するようになった婦人から、大山巌の娘信子の話を聞いて、その話をもとに書かれたことになっている。蘆花は自ら自分は電話線の役割をしたにすぎないと謙遜しているが、蘆花だからこそ夫人の話にいたく考えさせられ、創作意欲をかきたてられたのであろう。婦人の話が蘆花の心の琴線に触れたのである。琴線とは「人間愛」である。
 蘆花は長い間北多摩郡千歳村にすんだ。彼の家の敷地は広大で、蘆花の死後、蘆花婦人は邸宅と敷地を東京市に寄贈した。その敷地は今もなお公園として残っている。トルストイをこよなく愛した蘆花らしい。

※:写真上は、芦花公園内に建っている蘆花旧邸です。

 
徳富蘆花「黒い目と茶色の目」を読む

芦花公園にある徳富蘆花夫妻の墓 同志社英学校を創立した新島襄は、明治23(1890)年に神奈川県大磯の旅館百足屋で死去した。この百足屋を紹介したのが徳富蘇峰であった。
 徳富家と新島との縁は深い。徳富蘇峰・蘆花の兄弟は同志社英学校で学び、二人とも新島から深い影響を受けた。
 蘇峰は同志社英学校を中退したあと、新進気鋭のジャーナリストとして東京でデビューし、民友社を創立し国民新聞を創刊して、一世を風靡した。明治を代表する思想家・教育家となり、貴族院議員まで勤めた。
 蘆花も同志社英学校を中退しているが、兄の蘇峰と違って、目的があって中退したわけではなかった。失恋したために学校にいることができず、逃げるようにして学校をやめた。蘆花は5歳上の兄蘇峰に頭が上がらず、その後、民友社で働く傍ら小説を書き、結局、小説家として独立した。
 蘆花は「不如帰」でベストセラー作家になった。この小説は哀しい恋愛を扱っているが、多くの人の胸を打った。涙を誘わずにいられない感動を読者に与えたのは、蘆花自身が学生時代に、身を引き裂かれるような恋愛体験があったからだと私は思っている。

 徳富蘆花の「黒い目と茶色の目」は蘆花の同志社英学校時代の失恋体験を、蘆花が40歳を超えて当時のことを振り返り、自伝風に書いた小説である。登場人物は、名前を少し変えているが、すべて実在した人たちである。
 主人公は得能敬二(蘆花のこと)である。敬二は12歳のとき、飯島先生(新島襄のこと)が創立した協志社(同志社のこと)で勉学したが、すぐに、郷里の熊本に帰った。
 協志社を創立する上で、全面的にバックアップしたのが山下勝馬(山本覚馬のこと)であり、山下の妹が飯島先生の夫人(新島八重のこと)である。
 熊本の実家で、兄(蘇峰のこと)が結婚すると、家に居づらくなり、伊予にいる従兄の又雄(横井小楠に嫁いだ蘆花の母の妹の長男)の家に世話になることになった。又雄の妻はお稲(山本覚馬の長女で新島八重の姪)である。又雄は同志社出身で、飯島先生からの信頼は篤かった。
 物語は、又雄一家が伊予から京都に移ったときから始まる。敬二も一緒に京都に行き、協志社に再入学することになる。
 京都の又雄の家には、お稲の妹の寿代(ひさよ)がよく訪ねてきた。寿代は15歳で、協志社女学校に通っていた。敬二は又雄の家を出て、協志社の寮に入った。
 敬二は幾度となく寿代と会ううちに、寿代に惹かれていった。お稲が産後、急逝したのち、敬二と寿代の仲は急速に深くなった。いつしか、二人は将来を約束する恋人同士になっていった。
 お稲と寿代は腹違いの姉妹であった。寿代は山下の後妻の子で、その後妻は若い男と不倫をして子を身ごもり、山下家から追い出された。そのとき、後妻を家から追い出す急先鋒だったのが、義理の妹の飯島先生の夫人(新島八重のこと)であった。
 母親がそのような女であったためか、寿代にはどこか男好きのするようなところがあった。敬二は寿代に関しての艶聞に悩むが、敬二は断固として寿代と結婚しようとした。
 ところが、敬二と寿代の関係が又雄に知れるや、又雄は猛反対した。又雄だけでなく、兄そして飯島先生も反対した。
 敬二は悶々として、学校も休みがちになり、おまけに方々から借金をして、いよいよ学費を払うことも生活することもできなくなった。敬二は寿代と別れ、京都から逃げた。

 「黒い目と茶色の目」の茶色の目は寿代の目であり、黒い目は飯島先生の目のことである。
蘆花は終生、同志社を中退したことを後悔し、ことあるごとに新島襄の目を思い浮かべていたのだろう。この小説は蘆花の告白であるが、新島襄の教え子に対する姿勢も見てとれて、大変感動的である。

※:写真は、芦花公園内にある徳富蘆花夫妻の墓所です。

 
大森蘇峰公園内に建っている徳富蘇峰像

 写真は、大森蘇峰公園内に建っている徳富蘇峰像です。

作文道場徳冨 蘆花(とくとみ ろか)。 本名は徳富健次郎。
明治元年10月25日(1868年12月8日) - 昭和2年(1927年)9月18日)。
小説家。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰(猪一郎)は実兄。
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