講談社学術文庫の朝永振一郎の「鏡の中の物理学」には3つの一般向けのわかりやすい論文が載っている。論文というよりはお話といった方がいいかもしれない。すなわち「鏡の中の物理学」「素粒子は粒子であるか」「光子の裁判」である。これらの論文の内容はいずれも相対論と量子論についてのものである。量子力学についてといってもよい。 量子力学は20世紀に完成された現代物理学である。その現代物理学の理論が構築されはじめるのが19世紀末からである。現代物理学が登場するまでの物理学は古典物理学またはニュートン力学といわれている。 当然、19世紀末までは自然の法則はすべて古典物理学で解明されると科学者たちは信じていた。古典物理学の基本哲学はすべての自然の法則は粒子の運動をベースとしてとらえることができるというものである。ところが光とか電子のようなものの運動に関して、古典物理学の概念では説明できない現象が現れてきた。そして古典物理学に代わる新しい物理学の必要性が唱えられた。上にあげた3つのお話は新しい物理学がそれまでの古典物理学とどのように違うかを本質的にわかりやすい例をあげて説明してくれている。 量子力学は相対論と量子論とがベースになている。「鏡の中の物理学」では相対論、「素粒子は粒子であるか」「光子の裁判」は量子論について書かれている。相対論と量子論ははたして何なのか。
A、B2人が100m離れたところにいてお互いに毎秒2mで近づくように歩いた。このときAからBを見ると、Bは毎秒4mでAに向かってくるように見え、歩きはじめてから25秒後に両者は出会う。この毎秒4mの速さを相対速度といい、これは古典物理学では重要な概念である。 ところがA,Bが光の場合になると話は違ってくる。光の速度をcとするとBのAに対する相対速度は2cになるはずだが、実際には相対速度はcである。古典物理学の理論が成り立たないのである。 また、光は波の性質と粒子の性質を合わせもつことがわかってきた。光だけでなく、粒子と思われていた電子がやはり波の性質をもつこともわかってきた。電子や中間子などの粒子を素粒子というのだが、素粒子は全くわけのわからない運動をすることがあきらかになってきた。 P地点とQ地点までいくには当たり前のことだがP地点とQ地点の間を通らなければならない。ところが電子はその間を通らないでP地点からQ地点までいくのである。まるで幽霊である。その他、いろいろと物理学者の頭を混乱させることが素粒子の世界では起こる。 相対論と量子論がこれらの現象をうまく説明しようとした。そして相対論と量子論がさらに発展して総合的に光・素粒子の運動をあきらかにする量子力学が誕生するのである。
素粒子の世界では常識では考えられないことが起こる。その解明に科学者たちは血道を上げて努力する。科学者たちを未知の世界の解明へと挑戦させる動機というのは何なのだろうか。朝永は次のように考えている。
<つまり、科学の本質というのは、生活をよくするとか、悪くするとか、そういう次元と別な次元の価値あるいは、少なくとも意味をもっているのではなかろうか、そういう、よくするとか、悪くするとかいう観点とは別の方向にむいているような意味があるのではないか、という、そういう問いの出しかたがあるわけですね。>
私たちは何故学問・研究するかを役に立つからというあまりに実利的な面からとらえるよう仕向けられてきたような気がする。朝永は科学者が必死になって研究するのは実利的な動機でなく他の違った要求があるからだといっている。 私はその要求とは人間が本能的にもった未知なものを解明してやろうという欲求だと思っている。と同時に真理を追究していく長いつらいプロセスを経験することが人間の無上の喜びではないかと思う。 「鏡の中の物理学」は本質をついたおもしろく読める最高の量子力学の入門書である。 |